エモ捨て場

言葉にされない気持ちの墓場

鏡の国

僕はビデオボックスが並ぶ通路に、寄り掛かり何かを待っていた。
狭い通路をすれ違う一瞬だけ目があった。
暗闇の中で彼の顔はよく見えなかった。どこかで見た知っている誰かに似ている気もした。
彼がその個室に入るのを見て、僕は隣の部屋に入った。

 

小さな折り畳み式の椅子に座ると、個室の狭間にある鏡で彼の様子が少しだけ伺えた。
彼は鏡越しにこちらの様子を覗き込み、ズボンを摩る動作をした。
鏡の向こう側には欲望だけが渦巻いていた。
そういえば、鏡の向こう側へ少女が迷い込む児童小説があったな、と思い出した。
僕は自分が求められている状況に胸が高まり、少し呼吸が荒くなった。
僕はスーツのベルトを外し、チャックを開けて彼がそうしたようにその場所を摩った。
彼がそれをじっと眺めているのが見えた。
やがて個室の壁にある小さな穴から、手が突き出てきた。
僕はその手を、それぞれの指に絡み合うように手を重ね合わせた。
自らの下腹部を近づけると、彼はパンツ越しに固くなったものを触った。

 

個室を隔てる戸のカギを外すと彼がこちら側へ入ってきた。
暗闇に慣れてきたけれど、やはり彼の顔はよく分からなかった気がする。
くちづけの中で彼は舌を強く突き出して僕の口の中に入ってきた。
お互いの唾液がそれぞれの口に流れ込むのを感じた。
お互いの固くなった部分を擦り合わせ、感じそうな柔らかい部分を触り合った。

 

「個室行こうか」彼が発した初めての言葉はそれだった。
僕たちは、服を綺麗に着なおして、わざわざ別々の出口から扉を開けた。
彼は僕の手を引いて、暗闇の中を進んだ。
一瞬だけ、僕と彼は恋人だったような気がする。僕と彼にはそんな関係だけでいい。
思い出の中では一瞬も永遠も実はあまり変わりがないのだから。