お姫様
「負けず嫌いだからさ、体育会系の職場だったときは飲み会で無理やり吐いてまで飲んでたよ」
ステーキをワインで流し込みながら彼はそう言った。
ベッドの上で彼は僕のことを王子様みたいだと言ってくれた。そんなはずはないのに。清潔そうにアイロンのかかったワイシャツ。緩めずにきっちりと締めたネクタイ。ジェルで艶やかに整えられた髪。会社でそれなりの役職についているのだろう。でも彼が本当になりたかったものはお姫様なのだ。きっと誰かに甘えたかった。大切にされたかった。僕みたいなのを無理やり王子様だなんて呼んでまで。
彼の高級そうな腕時計が光る。軽く何か食べようと言って入ったレストランは僕が記念日にしか入らないような値段だった。生活のレベルが違うのだ。
僕は慣れないナイフとフォーク遣いがぎこちない。前菜のアスパラガスのグリルを落とした。それをみて彼は笑った。
ステーキは肉の味がして美味しかった。レアな焼き具合で少し血の味を感じた。肉の繊維をみしみしと噛みちぎる。
「コロナいつまで続くんでしょうね。」
「意味ないですよね。こんなことしても。」
吊り下げられた飛沫防止用のビニールを眺めながら話す。
お互い独り言を言うみたいな会話だった。沈黙を埋めるための定型文。どこかで聞いた言葉の切り貼りだった。そういえば行為中言葉はほとんど交わさなかった。話なんてしても、お互いの遠さに気づくだけだ。それを相手も分かっていたのかもしれない。僕とあなたの間には抱き合った心地よさだけがあれば良い。体重90キロ43歳男性。顎髭がセクシーだ。僕だけのお姫様。