エモ捨て場

言葉にされない気持ちの墓場

ラブレター

僕は君のことが好きだ。愛している。 
I love you/我愛你/Je t'aime/Ich liebe dich/Ti amo/月が綺麗ですね。
僕はふざけているのではない。君を愛するという気持ちはどんなに言葉を尽くしても表わし切れないのだ。
それにしても「愛している」という言葉はなんて手垢のついた陳腐で詰まらない言葉なのだろう。
言葉は使われすぎるとその効力を失うのだ。ありきたりな「愛している」よりも「君のことを憎んでいる」という言葉のほうが、むしろ強く愛が込められているようにも思える。
それでもあえて愛しているという言葉を使うのは、幸福はいつも陳腐でつまならいものと決まりきっていて、愛はそういう安住の世界に属しているからだ。
僕は君に幸せでいて欲しい。


名前の曖昧な彼らではなく、何度も名前を呼び合った世界にたった一人の君のことを愛している。
僕と君は友達が少なくて、家族とも親密ではない。
君と僕は世界にただ二人きり、それが心地よいときも、物足りないときもある。
僕は君に言った。
「僕がお父さんとお母さんとお兄ちゃんと弟と、友達と恋人、息子も全部やってあげるね。」
僕は君に料理を作り、洗濯物を畳んだり、一緒に出掛けて、帰ってお風呂に一緒に入り、セックスをして、同じ布団で眠った。
君は枕の上に両手を合わせて、赤ちゃんのようにぐっすり眠っている。
僕はいつまでこんなことを続けるつもりだろう。
結婚だとか世の中が決めた制度があったら違っていたのか。いっそ世の中から結婚という呪われた契りが全てなくなればいい。
君を愛する心と他人と性交したいという気持ちが別々の場所にある。いや、それは嘘かもしれない。別々なようで別々ではないような気もする。
僕は君に見限られることはなぜ考えないのだろう。それは君が優しいと分かっているからだ。君は僕のことを捨てることができないと分かっているから。
それは僕が君を軽んじていて、僕が君のことを愛していないという証左になるだろうか。
僕が君を好きだという言葉は欺瞞に満ちているだろうか。身勝手だろうか。こんな自分は死んだほうがマシなのかもしれない。
こんな自己満足で自己中心的で自意識過剰で自己憐憫に溢れた文章を書いている時点で僕は最低すぎるし、君という言葉は自分に酔った馬鹿しか使わないんだ。
あまりにも万死に値する裏切りなので、このまま包丁で思い切り自分の体を引き裂いて割腹や切腹で、腹から飛び出した腸を自らの手で千切り、出血多量で死んだほうがいいのだろう。

 

それでも…僕は君を愛しているのだと信じたい。
いつか平凡でつまらない自分を受け入れることができたなら、君と幸せな世界に安住できるだろうか。
僕が、本当に君と永遠に愛し合い続け、君だけを瞳に焼き付けて離さないという覚悟ができたのなら、いつの日かそんな日がくるのかは分からないけれど、そのときは痛みの籠った、血肉滲む痛みの伴った、生きたまま心臓を取り出して差し出すような行いを、どうか少しの償いを、穢れた魂に禊を行って、その上で僕の全てを君に捧げよう。指輪みたいなありきたりな幸せで、平和な世界で余生を一緒に往生しよう。