エモ捨て場

言葉にされない気持ちの墓場

小骨

見知らぬ女性が何か言っている。宗教の勧誘だろうか。ベンチに座る僕は、イヤホンから流れる音楽で何を言っているか分からず、眉をひそめて睨んだ。
「久しぶり!」
コードを外すと明るい笑顔で彼女はそう言った。そうだ、この人は僕の母親だった。少し皺が深くなっただろうか、いや思ったよりも若々しいようにも見えた。
今日はなかなか実家に帰らない僕にしびれを切らした両親が、都心にまで来て会いに来てくれたのだ。
待ち合わせよりも大分早い時間に着いて、百貨店前の広場のベンチで行き交う人を眺めていたのだった。

少しすると後ろから様子を見ていた父が現れ、「疲れる?元気?」と笑っていた。
僕たちはその百貨店の高層階にあるレストラン街へと向かい、普段は入らない少し高級な和食屋に入った。
「最近は忙しいの?」
まぁまぁかな、と僕は短い返事で答えた。実際、最近はせわしない日々が続いていた。
家と職場を往復するだけの毎日。生きる意味と働く意味が逆転してしまいそうだった。
意味のない仕事にうんざりするが、仕事を辞めてもやりたいことなどない。
「みんな元気?」僕がそう聞くと母は事細かに親族の近状を話してくれた。
喉に違和感が残った。食べていたひつまぶしの鰻の骨が刺さったのだ。
せっかくの食事だったが、それから食べ物を飲み込むために、喉の入口がチクリと傷んだ。

「おめでとう」僕は言った。
今日は両親の結婚記念日だった。結婚してから30年経ったのだという。
他人とそんなに長く一緒にいられる理由はなんなのだろう。
僕は同居する彼氏のことを思い出した。

「今日、友達と遊んでくるから、帰りは深夜か明日の朝になるからね」
なんの前触れもなく、この前彼からそんなメッセージが届いた。
僕は一人の部屋に帰ってきて、できるだけ何も考えないように努めて眠った。
僕のほうがもっとひどいことをしている。僕に彼のことを口出す権利などどこにもない。
彼のその行為を咎めもせず、問いただしもせず、僕はその出来事をなかったことかのように扱った。

「早く結婚したほうがいいよ」「子どもがいるって幸せだよ」
母が言った。父が言った。彼らのラインのアイコンは妹が生んだ子ども、孫の写真だった。
僕は「友達と同居している」と両親に話している。同居してからもう3年も経つ。
僕は両親に恋愛の話をしたことがない。恋愛どころか、いろいろなことを少しづつ話さないようにしている。
きっと彼らは僕が女性が好きではないことは勘づいてのだろう。でも、認めたくないから気づかないフリをしているのだ。
僕は意地悪なので、彼らに本当のことを言う日は来ないような気がしている。これは一種の復讐なのかもしれない。

食事の後、百貨店が設ける展望フロアに行った。
「うちのほう見えるかな」母はそうはしゃいでいた。
高層ビルや住宅街、その奥には白んで光る水面や大きな影になった山々が臨んでいる。
僕は記念に撮ってあげると、彼らを窓の前に立たせたが、写真は逆光でうまく写らなかった。

まるでミニチュアのようになった街を見ながら思い出した。
長男だった僕は、両親と3人で出かけたことはなかった。いつも妹が間にいた。僕は両親を独り占めしたかったのだ。
両親は僕よりも「女の子」である妹のことを大切にしているように見えた。
妹だけが2段ベットを持っていた。アトピーだった妹だけが部屋にクーラーを備えていた。妹は全く上達しないくせに電子ピアノを買ってもらっていた。
妹は偏差値の低い商業高校に入学し、名前を書けば誰でも入れるような大学に進学した。喋り方がバカそうな男と子どもを作りたった1年で仕事をやめた。

母は今では孫の世話をするのが生きがいになったようだった。
お土産コーナーで、「これを買ったら喜ぶんじゃない」とかチープな玩具を見ながら父と話していた。

ねぇ、今更僕のことを理解しようとしても、何もないし、何も起きないよ。
僕もあんたらに何も期待しないのだから、お前たちも僕には何も期待なんてするなよ。
本当のことなんて一生言ってやるもんか。


唾を飲み込むと喉に刺さった小骨がまた傷んだ。