お墓

行き場のない言葉や気持ちの墓場です。

坂口安吾

坂口安吾が大好きです。彼が、わたしに生きること、死ぬこと、孤独であること戦うことを教えてくれました。

 

 

この三つの物語が私たちに伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。


(中略)

 

それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私はいかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野をさまようだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであるようと同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。


文学のふるさと

 

 

 

 

 

 

ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれもでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。
(中略)
しかし、人生は由来、あんまり円満他行なものではない。愛する人は愛してくれず、ほしいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口を広げて待っている。強者ほど、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。


(中略)

 

人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさがわかるほかに偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりだろう。そのくせ、恋なしに人生は成り立たぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また明記しなければならない。
人生において、もっとも人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを恐れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたさぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうことなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうおとも、このほかに花はない。

 

恋愛論

 

 

 

 


私は風景の中で安息したいとは思わない。また、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は墜ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ、わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。

 

デカダン文学論』

 

 

 

 

 

 

 

 

生きることだけが、だいじである、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。ほんとうは、わかるとか、わからんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありゃせぬ。おまけに、死ぬほうは、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、戦い抜いてみせなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことをやるな。いいつでもできることなんか、やるもんじゃないよ。


(中略)

 

しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思うときが、あるですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は、きめている。是が非でも。生きる時間を生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。

 


『不良少年とキリスト』