『匿名の彼女たち』一夜と永遠

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五十嵐健三『匿名の彼女たち』最終巻の6巻が最近出たので、今回はそのことについて書きたいと思う。
(ネタバレあり)

 

 


『匿名の彼女たち』
あらすじ:
主人公の山下貴大(33歳)は中堅商社勤務、独身、彼女なし。
趣味は風俗巡りで、タイトルの通り、名前を偽って働く風俗嬢たちとの
一夜、一瞬限りの出会いを描く…。

 

この作品が好きなのは、可愛い女の子といろんなプレイを描くみたいな
単なるエロだけの作品ではなくて、風俗で働く女の子の、ほんの少しの会話や仕草から垣間見える
思い出、感情、主人公が感じる行き場のなさ…切なさが描かれているところです。

 

その切なさっていうのは、例えば一巻でこんな会話がある。

 

 

「親父さんと仲良いの?」
「よくわかんない。アイツ仕事ばっかであまり家に居なかったから…」
「あ~でも最近よく会話はするのよ!アイツに子供ができてね…」
「それがちょー可愛いのよ!まあ腹違いなんだけどいちおう姉弟よね…」
「もう少し大きくなったら一緒にお人形遊びするんだ!まぁ親父念願の男の子なんだけどね」

 

風俗で求めているのは、特定の愛すべき女性ではなく
ただ、性欲を満たすだけのために、顔やプロポーションが整っていれば誰でもいい他人、関係のない人間だ。

 

しかし、その娘がどんな家庭で育ってきたのか、今までどんな想いでいきてきたのか? ふとした瞬間に少しでも知ってしまうと
お互い無感情な全くの他人同士ではいられない。

彼女たちは誰でもない誰かではなく、ただ一人の女性となって彼の前に現れる。
しかし、彼女たちの人生と深く関係するわけではなく、ただ一人の人間の寂しさや切なさを知って、すれ違っていくだけだ。

 

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また、僕が特に気に入ってるのは、2巻でデリヘル嬢ミユウちゃんと店外デートをする回だ。

会社で想いをよせる女性に彼氏がいることを知ってしまい、そのショックを埋めるために「誰でもいい」と彼女を誘う。
手をつなぎ、一緒に食事を分け合い、観覧車に乗り、二人はドライブデートを楽しむ。
しかし、山下はシャワーを浴びる彼女の携帯に客から卑猥な留守電があったのを覗き見てしまう。
山下は帰りの車内で留守電を聞いてしまったことを話し、「俺以外にもデートしたりsexしたりしてるのかな…」
と言葉をもらす。ミユウちゃんは自分をデリヘル嬢だと分かってデートに誘ったのに、そんなことを言うのは最低だと言って車を降りる。
山下は、ミユウちゃんへ電話をかけるが繋がらず、彼女を傷つけたことを最低だと思う反面、他人と深く付き合うことを避けれたことに安堵する。

 


僕は山下の気持ちがよ~く分かる気がする。
好きな人に抱く清楚でいてほしいという幻想や、たった一度身体を重ねただけでも、その人のことを独占したいと思ってしまう
アホさ加減とか、男って本当にバカで情けない生き物だと、実感する。

 

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そんな『匿名の彼女たち』の6巻では、想いを寄せる会社の後輩である郷田さんと
最初で最後のセックスし、そのあと告白するのだが、そこでこんな会話をする。

 

「私・・今日とっても幸せな気持ちになれたんです」
「いろいろあったけどでも最後に」
「多分一生分の幸せをもらって…」
「だから私もう可哀想な女じゃないんです」
「今日のことでこれからどんなことがあっても生きていけるって思えたから…」

 

結局、山下は郷田さんに振られ、何年か後にばったりとスーパーで彼女と出会う。
彼女には子どもがおり、幸せそうな姿をみて山下は涙をこぼす。

 

この漫画のテーマはこの最終話にある気がした。
それは鶴田謙二の『おもいでエマノン』に通じるようなものだと思う。

 

 

つまり、一瞬の愛も、永遠の愛もその価値は変わらないというか
郷田さんは山下からの愛を信じていないというわけではなく、
一瞬愛されただけでそれだけで満足した、だからそれ以上のことはもう求める必要がないということなのだと思う。
夫婦になることが世の中では正しいと信じられているけど、
愛は一瞬でも愛で好きだという気持ち、他人を肯定する気持ちには変わりがなく、
ひと時の愛でそれは意味のある事だということなのではないか
永遠の愛も刹那の愛にも同じ価値がある

だから風俗嬢と体を重ねあう一夜限りの恋もそれが偽物だとか本物だとか、そんなものにこだわるのは意味がなく
一瞬すれ違っただけでも好きという気持ちはずっと残る
結婚とか夫婦になること、誰か一人を愛し続けることと
誰かを一瞬でも愛することに本当は違いなんてないのではないか。
夫婦でいたとしても、その人のことを好きになって嫌いになってそれを繰り返すだけだ
だから風俗嬢との出会いがムダというか、生産性のないものではないとかではなくて、
山下がたとえサービスを受けるとかそんな関係でも、その瞬間にお互い満たされたなら、
それで生きていける瞬間があるかもしれないし、
一瞬でも愛し愛され、誰かの気持ちを慈しむことができたなら、それは幸せだ。
たとえ風俗嬢との一夜の逢瀬でも人を愛する気持ちに変わりはない
誰かに好きと思われた、という思い出があれば、生きていけるそんな瞬間があるのではないか


…と勝手に解釈しました。

 

あ、あと毎回表紙のデザインがすごくかっこいいので(画像参照)それも大好きなところです!五十嵐健三先生次回はどんな漫画を描いてくれるのかすごく楽しみです!

 

 

おわり

 

 

 

本を読むのが好きでした。(今は?)

本を読むのが好きだった。

今も好きなのか?と聞かれると、ちょっと迷う。
活字を読むのってそれなりに集中した時間が必要で、
働くなかでそれを娯楽とするのは少し疲れてしまう。
簡単に読めるTwitterだったり、気休めになるゲームだったりを
することが多くなった。

 

 

でも、やはり、ふとした時に自分に本が必要だと思う
瞬間があり、そして手に取ってみることがある。たまにだけど。
本は好きだけど、今はそんな存在。

ちょっと今まで好きだった小説について振り返ってみたいと思う

 

 

幼稚園
なんとなく絵本とか好きだった覚えがある。
ポケモンの絵本とか暗記するほどよく読んでたかな。

 

 

小学生

(~3年生くらい)
はっきりと本好きを意識したのがこのあたり?
講談社青い鳥文庫はやみねかおるの「名探偵夢水清志郎事件簿」とか
あさのあつこの「テレパシー少女蘭」シリーズとか読んでたなぁ。

 

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はやみねかおるはこの後高学年くらいまでずっと好きで
「都会のトム&ソーヤ」とか他の短編もめちゃくちゃ読んだ。

はやみねかおるの好きなところは、「事件を解決して不幸になるなら謎解きはしない」って探偵がポリシーを持ってること。
名探偵コナンとか、なんであんなに、他人の人生にズケズケと足を踏み入れて
自分勝手に誇らしげに犯人を追い詰めることができるんだろうと思う。
そこまでの覚悟がお前にはあるのかと問いたくなる。

 

 

それはさておき、ここがはじまりでたくさんミステリー読んでいった。
男の子で小説にはまるとき、たぶんミステリーかSFかの二択だと思うんだよね。
僕はミステリーだった。

 

 

あと、なぜかよく覚えているのが「パソコンライダーたけし」っていう
ちょっとした挿絵のついたなんか子ども向けの小説みたいなやつ。
死んだおじいちゃんが残したバイク(高性能のAI付)みたいなのに乗って
事件を解決していく…みたいなあらすじだったと思うんだけど、

これ、最近ふと思い出してネットで検索しても画像一個もでてこなかったんだよね。
ちゃんとした出版物だったけどインターネット時代に検索出てこないものなんてあるんだと
まあ当たり前かもしれないんだけど、改めて実感した。

 

『友達は1/2ゆうれい』とか学校の読書感想文で読んでなぜか頭に残ってる。

 

児童文学って一瞬だけ子どもの心に寄り添って、
でも人々から忘れられていく儚いものだなあ。

ラノベも同じだけど、ちゃんと完結しなかったりするしね。

 


(小学高学年)
ハリーポッターとかブームだったけど、それには一切目もくれず、
僕は「ダレン・シャン」とか「デルトラクエスト」とか「ルイスと魔法使い協会」とか
あと海外児童向け文学だとレモニー・スニケットの「世にも不幸なできごと」シリーズが
結構好きだったなぁ。アレックス・シアラーとかもよく読んでた!

 

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あとは、大人向け、というかふつうの一般の小説を読み始めたのもこのころ。
ちょうど六年生くらいのときに金原ひとみと綿谷りさの芥川賞ダブル受賞があって
蹴りたい背中」「蛇にピアス」両方読んだのだけれど、
どちらも性的な部分ってでてくるじゃないですか。
それが、なんか嫌悪感があって、なにかいけないことをしているような
居心地の悪い気分になってあまり面白いと思えなかった。

 

 

でも後々、中学3年生くらいのときに読み直して二人ともにすごくすごくはまって
とくに金原ひとみの「アッシュベイビー」は人生のベストに入るくらい
あの文章のドライブ感とか疾走感、好きという気持ちの暴走、ぜんぶ含めて大好きだ

 

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(中学生)
友達もいなかったので本ばかり読んでた。
確か小学高学年からライトノベル読んでたんだけど、ここから本格的にはまりはじめた。

世間では涼宮ハルヒシリーズとか灼眼のシャナとか流行ってたんだけど、
なぜかメジャーなメインストリームにはあまり惹かれずちょっとずれたところを進み続けた

まずは「キノの旅」そして長いながい「魔術師オーフェンはぐれ旅」シリーズ
今となってはあまり覚えていないんだけど、オーフェンシリーズってすごく設定がしっかりとしていて
魔法も人間が使う魔法は声を媒体にしていて、声が響く範囲しか魔法が届かないとか
ギャグの感じとかも面白くて結構読んでたなぁ。

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それから、今でも大好きな上遠野浩平先生の「ブギーポップ」シリーズ!!
上遠野サーガの虜ですね。「ブギーポップは笑わない」からはじまる、
主人公になれない若者たちの群像劇、そして能力バトル、もうどっぷりと浸かりましたよ。

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そのあと無事、西尾維新にはまりました。(笑)
そのころはまだ戯言シリーズくらいしか出していなくて、完結間際(「ネコソギラジカル」中あたり)
でいろんな書店でバラバラに表紙のしおりを配ってたりしたんで、書店を渡り歩いた思い出が…

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清水マリコも大好きでした。

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アマゾンのランキングを片っ端からみて面白そうな本をピックアップするみたいなことやってましたね…。
それぞれの本もあとで考えてみれば、それぞれの小説の影響関係とか分かるんだけど
後々になって西尾維新森博嗣上遠野浩平に影響を受けてるとか、あとからインタビューとかで知るようになりました。

このライトノベルブームと並行して
森博嗣大先生も大好きで意味も分からず「すべてがFになる」とか読んでましたね。
森博嗣小説の名言集とか買ったりして。
S&Mシリーズとか読まないのにブックオフとかで見つけては買ったりして。
それ以上に好きなのは『スカイ・クロラ』シリーズ。表紙もこれ以上ないほど美しかった。

 

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あーもうこれはたまりませんよね。

あとは、ここらへんで金原ひとみ・綿谷りさ・本谷有希子にはまりはじめました。

(高校)
ちょっと友達もできて読書から離れてきた。

たぶんいろいろ読んではいたと思うけど、そのなか
でも衝撃を受けたのは、坂口安吾の「文学のふるさと」かな。

 

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安吾は教訓のない、最後に突き放されたような気持になる物語
赤ずきんちゃんのように、オオカミに食べられて物語が終わるような)
に人間のふるさと、文学のふるさとがあるのではないかと言った。

これは僕にとって何か人生を変えるような大きな考え方だった。
それから坂口安吾の「青春論」・「堕落論」・「日本文化私観」などなど
どれも頭をカナヅチでぶん殴られたような衝撃を受けた。

 

 

 

(大学)
大学に入ってからは哲学に興味が出てきて、哲学書とかも
まぁ、ざっくばらんにいろいろ読んだ。

友達のススメで村上春樹村上龍とか読んだのだけれど、
そんなにどっぷりはまり込んだわけでもなく。

大学時代に読んで一番衝撃を受けたのはたぶん吉村萬壱だと思う。

 

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感覚的な描写とユーモア、人生のみじめさ、暗さ、何もなさ。
救いのないこと自体が救いになるような、
これも自分の考えを変えた小説だと思う。

 

 

 

 


…といろいろ書いたわけだけれども、読書ってマイナーな趣味だなってほんとに思う。
読書好きの人でもそれぞれ趣味が合わなければ、話も合わないし、
今までどっぷりとだれかと読書の話をしたことってなかなかないよね。

 

一度、本好きの友達と本屋さんの「あ~や」までをお互いの読書遍歴も交えながらじっくり歩くっていうのを
やってすごく面白かった!誰かとまたやってみたいものです。

 

みんな忙しくて、本なんて読むひまないよねって社会人になってから感じた。
それに、若くて心が機敏だったときこそ、本って面白く感じるもんなんだよねきっと。

 

今読んでも面白く思わない小説ってきっとたくさんあるだろうし。
だから誰かの言葉で「人生は短い。あの本を読めば、この本は読めない」みたいな言葉があってたぶん本来の意味としては「人生では一つの選択をしたら別の選択はできない、時間は限られている」みたいなことを言っているのだと思うのだけれど、一冊の本を読めばその時点で心が変わってしまって、あの本は面白くよめても、それを読んだせいでこの本は面白く感じることができなくなってしまう、みたいなものが本を読むってことなんじゃないかなーと勝手に曲解しています。

 

 

おわり

 

 

 

 

ポケットモンスター「キミにきめた!」無償の愛・友情・マクガフィン

ポケモンの新作映画「キミにきめた!」を見てきました。
単に子供向けのアニメではなく、自分の人生を考えさせられるような、
映画として素晴らしい作品でした。

 

以下ネタバレ注意

 

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 【ピカチュウ
改めてキャラクターの可愛さにやられました。
触ったらふにっと柔らかそうな質感とか、ちょこまかと動きまわるネズミっぽい感じとか、
チョロっとした舌とか、そういう細部に神が宿っているような表現!!
どこにも可愛さ、愛らしさが溢れてて堪らなかった!悶絶級の可愛さだった。

さらに、ピカチュウやサトシの顔がアップになるシーンでは、
そのたびに彼らに見つめられているような、対面で話しかけられているような感覚に襲われて、ドッキとする。
あるときはサトシとして、あるときはピカチュウとして、彼らと一体となってどちらにも感情移入をしてしまった。
というか、ピカチュウオニスズメを追い払って二人で地面の横たわるシーン、あれなんかもうほとんど
ラブシーンじゃないかと思う。頬を舐めるところなんて、キスと同じなんじゃないかと!!

 

 

【サトシ】
サトシって、あの自信満々でいつも勝気な感じが苦手で、今まであまり好きになれなかった。
幼いころは、ずっと絶対に友達になれないタイプだとと思ってた。
でも、今回のサトシはいつも一生懸命でひたむきで、走り続けていて、純粋で曇りがなくて…サトシのことをずいぶん好きになってしまった。
大人になったから、少し俯瞰して見れたのかもしれないけど、サトシも子どもで強がっている部分があったんだということに気づいた。

サトシとピカチュウの出会いは偶然だったのだけれど、その偶然をまるごと受け入れてピカチュウを愛するサトシの姿は大袈裟かもしれないけど美しかった。
というか、あのメインビジュアルの跪いたサトシとピカチュウがホウオウを見上げているポスター本当に大好きで大好きで
映画を見たあとその気持ちが高まってすぐに池袋のポケモンセンターに行ってグッズを買いに行ったのですが、本当にあのビジュアル最高じゃないですか。
夕暮れとキラキラ輝く伝説のポケモンと、腕も足も細くて小さくて「あ、やっぱりサトシってまだ10歳の子供なんだ」って幼さと儚さ、
そこに寄り添うピカチュウの手。たまらなく、ぐっときた。

 

 

【ホウオウ】
ホウオウというポケモンは初代のアニメ一話からでてくるポケモンなのだけど、今までそのあと何も触れられずに
物語が進んで、今やっと取り上げられたという感じだけど、ただそれでもホウオウというのが、
何なのか?伝説の存在で虹の勇者っていうのが何なのか?っていうことにはそんなに意味がないというストーリーの構造が
少し面白かった。物語を進める上でのこれはマクガフィンMacGuffinなのだと思った。
だから今回の映画に出てくる伝説のポケモンはホウオウじゃなくても、例えばルギアでもよかったし、ミュウが誰か勇者を選ぶとかそんな感じでもよかったわけで、
ホウオウがある意味空白を持った存在になっているのもとても興味深かった。

 

 

【サトシとピカチュウの関係】

ピカチュウはサトシが欲しいポケモンじゃなかった。
前日に見ていたフシギバナカメックスポケモンバトルをみて、
その進化前ポケモンであるフシギダネゼニガメどちらにしようと
ワクワクしながらオーキド博士の研究所の階段を上るのだけれど、
そこにはどちらのポケモンもいなかった。

キミに決めたって言葉がよく出てくるのですが、実際サトシはいろいろなものを吟味して選んでいるというわけではなくて、
自分との偶然の出会いを大切にしてそれを受け入れて愛している。
それこそが、重要なのではないかと思う。

サトシは、ピカチュウのことを強いから・可愛いから好きなんじゃなくて
「自分と出会ったから」という、その運命自体を受け入れて愛しているのだと感じた。

「キミは俺のことが嫌い?俺はキミが好きだよ!」ってセリフがあるのですが、
あんな無条件に誰かのことを全肯定して受け入れるセリフってすごい。

でも、人を好きになるということ・誰かと関係するということは
こうやって、偶然の出会いをありのままに愛することなのかもしれないと思った。
好きの理由というのは、結局は後付けで、本当は理由なんて何もないのかもれない。
学校や会社だって、膨大な数の人のなかから本来何の縁もない他人同士が、
本当に偶然的に出会って友達になったり仲間として働いたり、恋に落ちたりする。
好きに理由はないのだと思う。

サトシはピカチュウのことを、自分の全てを投げ打ってでも守ろうとする。
そこには、きっとだだ純粋に好きという気持ちだけがあるんだろうと思う。

そういえば、フシギバナカメックスのシーンはミュウツーの逆襲の冒頭シーンを使っていたりして
そういうオマージュを入れてくるのもポケモン世代の心をくすぐりますね。

 

 


【友情】
サトシとピカチュウの関係は友情、友達なのだと思うのだけれど、
友情ってなんなのだろうと最近よく考える。恋愛とも違う、というか恋愛と友情の違いってなんだろうか。
セックスしたと思うかそうじゃないかってこと?じゃあ、セックスしたいと思った相手との好意は友情じゃないのか。
社会人になったら、多くの人は家庭を持って友情よりも大切なものができるでしょ。
それに大人になったら何か利害抜きでの人間関係ってなかなかできないじゃないか。
友情ってなんのためのものなのだろう。友達ってなんなんだろうと思いませんか、みなさん。
友情、友達昔から友達を作るのって苦手だった、今だって友達って少ないし、
だから羨ましかった。サトシとピカチュウの関係が。
恋愛とか利害関係を抜きにしてお互いのことを信じて一緒に居られる関係が羨ましかった。
僕にはそういうものって、ないのかもしれないと思った。

サトシは「世界一のポケモンマスター」になりたいって言うけど、
それは「世界一強いポケモントレーナー」という意味ではなく、
世界中のポケモンと交流して仲良くなりたい、と言っていた。
それってなんて純真なんだろうか。

 

 

【旅】
そういえば、一瞬の夢の中でポケモンがいない世界、色のないモノクロの学校
そこでサトシはこんな会話をする。
「あの海の向こうに何があるのかな?」
「同じように町があって人が暮らしていて森があって…どこも同じだよ」
「でも、たとえ同じだとしても自分の目で何があるのか確かめてみたい」
ピカチュウと一緒なら、どこまでも行けるような気がするんだ!」

人生ってもう、ある程度大人になれば、自分がどんな人生を歩むのか大体見えてくる。
自分が何ができるのか、できないのかとかが分かってきて、
たいてい予想外のことなんてなくて、面白いことなんて何もなくて、人生には何の意味もなくて
どこも同じような街、同じような人、同じような仕事、変わらない自分と
ただ生きて死ぬだけ。

そういえば、転職活動をしていたときにカウンセラーの方が「やりたいことがない人のほうが多いですから」って言ってた。
人生には目的もなくてゴールもなくて、退屈でどんなものがあるのか分かり切ってる、つまらない世界だ。
でも、一緒に誰かいてくれて、つまらないことでもそれを一緒にで確かめて、
意味のないことを楽しんでくれる誰かがいれば、それってすごく愛おしいことだ。
そんな人がいることは、すごく意味のあることで、素敵なことだと思った。
それがピカチュウとサトシの旅であり、全ての人が生きている世界なんじゃないかと思った。

 

 

【ラストシーンについて】
最後のシーン、正直分からなかった。
サトシがたくさんのポケモンからの一斉攻撃を受けて消えてしまうのだけど、
ピカチュウの叫びと一千万ボルトとの攻撃のあと草原?異次元から走り出すサトシがよみがえるみたいな
あれってどういう意味なのだろう。もし、良ければみなさんの解釈をぜひ聞かせてほしい。

 

 

【おわりに】
いろいろ書きましたが、僕はこの映画をみてサトシのポケモンになって愛されながら
一緒に旅に出たいなと思いました。(オイ

おわり

 

(華倫変を、覚えていますか?)

 

華倫変という漫画家が大好きです。

 

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連載時に読んでいませんでしたし、華倫変という名前はどこが苗字なのか、名前なのか?とか(かり↑んぺん)なのか(かり↓んぺん)なのかとかイントネーションも基本的なところからよく分からないことだらけなんですが、本当に好きで好きでたまりません。

 

普通に生活をしていても華倫変と出会う機会なんてなかなかないので、ちょっと運命的なめぐりあいでした。Twitter脱糞忍者さんという変態的なツイートをしている方がいるのですが、「俺がこんな風になったのは高校時代に華倫変を読んだからだ」みたいなことを書いていて、相当ヤバい漫画なんだろうなと興味を持ったがきっかけです。その後、吉祥寺のバサラブックスに通りかかり、なんとなく覗いた棚の一冊に「高速回線は光うさぎの夢をみるか?」を見つけて、「うわっ。こんなところで出会えるなんて」と速攻購入し、帰りの電車の中で夢中になって読みました。

 

華倫変とは

1974年生まれ。大学在学中に投稿した作品で講談社ちばてつや賞を受賞。「週刊ヤングマガジン」で作品を発表し、その後、太田出版の「マンガ・エロティクスF」で執筆。2003年に心不全のため、28歳の若さで他界しています。

 

刊行経歴

『カリクラ1講談社1998/2

『カリクラ2講談社1998/5

『カリクラ上華倫変倶楽部』太田出版2002/4

『カリクラ下華倫変倶楽部』太田出版2002/5

『高速回線は光うさぎの夢を見るか? 太田出版2002/9

『デッド・トリック! 七本署稀覯犯罪図鑑』(2003/11

『デッド・トリック! 七本署稀覯犯罪図鑑』(2003/11

 

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1998年出版の『カリクラ』は2002年の『カリクラ―華倫変倶楽部』の新装版ということも考えると寡作な作家だということを改めて実感します。『カリクラ』『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』は短編集で『デッド・トリック! 上―七本署稀覯犯罪図鑑』のみ長編の作品となっています。

 

作風

「私は頭が悪いから…」と、憂鬱と諦念の籠った女の子の眼差しに心を掴まれます。物語の結末に救いはなく、日常を切り取ったようにありのままを描く、冷たいリアルさがあります。『カリクラ下』のあとがきで漫画に夢中になっていた時期に読んでいた漫画が、ねこぢる山本直樹だとと語っているおり、その影響は誰もが感じるところだと思います。

特に山本直樹はストーリーだけでなく画面の構成も似ています。例えば「ピンクの液体」でビルの屋上からのぞく背景の街の感じだったり、「高速回線は光うさぎの夢を見るか?」の死ぬ間際の走馬燈で記憶がフラッシュバックするコマ割りなど…。               

山本直樹の影響を強く受けている華倫変の作風を、あえて対比させることによって、その魅力に迫っていきたいと思います。

彼らの描き方を見てみましょう。女の子とエロや風景にモノローグが流れるというシーンは両者でよく描かれています。このとき、山本直樹は誰かがビデオを回しているような俯瞰で描くのに対し、華倫変はより心情を内面から描くことに特徴があります。山本直樹の作品は男性の主観であることが多く、女性の表情やそのシーンの情景で切なさがを感じます。

一方で、華倫変の作品では直接セリフとして表れる女の子の言葉に心情描写が生々しく描かれます。寂しさ、切なさ、諦め…。つぶやきのひとことひとことに、そういった感情のリアルさが満ちています。

「一日中なにをしてたらいいのかわからない…」「それなのに時間だけはただもうどんどん過ぎていくのが怖いよ…」(「映研」『カリクラ上』収録)

「苦しみっていうのはただ噛みしめるようになれていくしかないのかな」(「下校中」『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』収録)

やりきれない気持ちが存在し、そこにある感情だけが宙ぶらりんになって物語が終わる。悲しくて切なく救いがない。ひどい物語です。でも、不思議な爽快さがあります。それは、救いのない現実をありのままに描いてくれるからなのだと思います。救いのない、現実があってもいいんだと、すこし安心に似た気持ちを抱きます。救いがないこと、それ自体が救いになるような、そんな世界。ここに華倫変の最大の魅力があるような気がします。

 

親交・影響

『デッド・トリック! 』の解説がギャグ漫画家の尾玉なみえで、少しですが親交があったようです。意外なような、意外じゃないような…。宮崎夏次系華倫変の「ピンクの液体」に影響を受けているとのことです(『MdN』2017年7月号)。窓ハルカが前に華倫変さんの作風に似せた漫画をTwitterに投稿しており、影響を受けているのではと推測しています。適当な鳥みたいなやつも、華倫変の「バナナとアヒル」にでてくるアヒルに似ているのかもなーなんて勝手に妄想してしまいます。 

  

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「高速回線は光うさぎの夢を見るか?」 

 

「今日」「私はセーラー服を着ることにしました」「まだマトモだった頃に戻れるかな?(笑)」

「これが…こうすることが私と世界との」「ギリギリの接点だっただけなのです」

 

「高速回線は光うさぎの夢を見るか?」という作品があります。

死ぬまでの100日間を掲示板に投稿する女性。そして彼女は…。というのがあらすじです。

 

南条あやのHPと「あと100日で死ぬという記述」をたんたんとネットに残して消えた男性の日記を参考にしたと語っています。内田裕也監督の「コミック雑誌なんかいらない」のセミドキュメント要素を入れて書こうしていました。このドキュメントというか断片的な記憶の描き方は山本直樹の描き方に似ています。

 

この作品は華倫変の作品のなかでも、作品のすばらしさ、それ自体とは別の意味で特殊な位置づけにあります。というのも、華倫変の死、それ自体が自殺だと言われているからです。噂でしかないのかもしれないのですが、早すぎる死がこの作品のイメージと偶然だとしても結びついてしまいます。

                                               

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参考にしているのですから、当たり前なのですが、南条あやと主人公、そして華倫変のイメージがクロスオーバーします。死と隣合わせでいることが「私と世界とのギリギリの接点だっただけなのです」と作中で主人公は語ります。幸福であったとしても、死ぬことと繋がることでしか生きられない、そんな生き方が確かに存在するのだと思います。もしかしたら華倫変もそういった人物だったのかもしれないと想像せずにはいられません。いや、誰しもそんな瞬間があるのだと思います。綱渡りのように生きると死ぬことをすれすれにふらふらと歩かなければ、生きていけないときがあるのだと思います。華倫変は、そんな生き方をちゃんと描いてくれたから、漫画を読んで安心したり爽やかな気分になったりするのかもしれません。

 

終わりに

 どこにもつながらなくなった華倫変保護倶楽部はインターネットの廃墟のような…お墓のような場所ですね。なんだか寂しくなります。

出版されているどのタイトルももう絶版で、すこしづつみんなから忘れられていくのかなぁ…と思います。いや、読んだ人には深い傷跡を残しているのかな?(笑)僕にとってはそんな本です。

 

いろいろと書きましたが、華倫変が大好きで大好きで大好きで、もう新作が一生読めないって本当に悲しいことだなー…と思います。