お墓

行き場のない言葉や気持ちの墓場です。

さよならを教えて

凪のような 感情の平穏と

 動かない ココロの欠片

 屋上にそろえた 白い上履き

 空から降る 歪んだ肉細工

 わたしは境界線 白と白との境界線

 情欲を書き込むタブラ・ラサ

泡沫の漆黒の亀裂 うたかたの物語…

今はもう くちづけも欲しくない 望むのは 完璧なadieu

昼と夜の間で 時間(とき)が止まる

終わりのない 永遠の夕暮れ時

不確かな世界は 真夏の逃げ水

あなたさえ 遠い幻

何もかも 玉虫色に溶けて

落ちて行く 混沌の中

わたしは放物線 ただひとつの放物線

そして無にもなれずに 無明をさまよう 歪んだ肉細工

だけど無にもなれずに 無明をさまよう 歪んだ肉

冷え切った 掌にただひとつ

欲しかった 完璧なadieu

昼と夜の間で 時間(とき)が止まる 

終わりのない 永遠の夕暮れ時 

昼と夜の間で 時間(とき)が止まる 

どうぞあなた さよならをください

 

明日も雨が降ればいい

シーソーのように揺れる毎日
幸せと自由を天秤にかける
快楽と幸福は違うんだよ

ある人のことを思い出した。
何か重い病気にかかってしまって、薬の副作用か何かで頭がおかしくなってしまった。
一度お見舞いに行ったのだけれど、よだれを垂らしながら、目は虚ろで、足だけがベットの上を這うように動いていた。
見ていられなかった。
それからその人は命には別状なく退院したのだけれど、思考回路が幼児のようになってしまっていたようだった。
僕は一時期その人にお世話になっていたから、悲しかったのだけれど、何もできずにただ見ているだけだった。
でも、何もできなかったのは僕だけでなく両親もだし、その家族もだった。
いや、なにか努力を尽くしたのだろうか。分からない。

彼女は何の病気だったのだろう。
知能が退行してしまうような副作用のある薬なんて存在するのだろうか。


同性愛者というのはなぜ存在するのだろう。
生物というのは須らく自分の種を存続するために生きている。
人間は子供を産むことで、遺伝子は不死だということもできるかもしれない。
同性愛というのが社会の均衡に必要な役割だから、というような説も聞いたことがあるけれど、本当だろうか?
子どもを産まずに、お互いの性器を弄り合うだけで何の生産性も持たない性行為。
やはりある種の欠陥商品のようなものなのだろうか。
あるいは、何の意味もないのだろうか。

生物が個々に違うというのは、、
いろいろな環境へ対応するためのバリエーションなのだという。
寒いのに強い人、暑いのに強い人、とか体質でも様々あるけれど、ある程度ランダムに個体を作りだすことで、
一つのなにか巨大なインパクトにも耐えられるようにしているらしい。ある種は死滅しても、ある種は生き残るように少しづつ変化を持たせているのだという。
しかし、そうすると同性愛もなにかそうした種の保存のためのバリエーションの一つなのだろうか。


テレビで見たのだけれど、50代の男性が女装をきっかけに自分のなかにある
女性への変身願望に気づいてしまい、それからキャバクラ嬢のように露出度の高い服で、女言葉を使って生活するようになったってドキュメンタリー。
悲劇なのは、彼には奥さんがいて、奥さんは彼のことを愛しているし、彼も性的な対象は女性のままで、彼女のことを愛しているということ。

奥さんは可哀想だったなぁ。何年も連れ添った旦那だからいきなり離れるわけには行かないし。でもどこか出かけるときは、女装した老年男性がギリギリのミニスカートをはいて隣を歩く。
旦那が女装に目覚めてしまったからというより、自分の信じてきたものが意味の分からないものに侵食され壊されてしまったということが、
本当に絶望だなと思った。奥さんへの愛情や世間体よりも、「自分が女性として生きる」ということを選んでしまうなんて滑稽で惨めなことなんだろう。


でも、実際に人の心そんな風に急に変わってしまうものなんだろうな。
朝は機嫌が悪い、とか誰にでもよくあることだけれど、
人間の心って流動的で、形があるようで、そんなものは実はなくて、ある日メルトダウンしてしまうようなものなんだろう。
僕は僕の好きな人が、そうなってしまうことが、本当に怖い。

しかし、自分自身のことで言えば、どこかそんなふうに、地球の磁場が逆転するかのような、
大きく心を揺さぶる出来事を求めているような気もする。

みんな、自分を壊したいと思っているのだろうか。みんな、結局もう大切なものなんてなくて、自分がどうなってもいいと思ってるんだね。
なにもない空虚な退屈よりも、どんなつらい目にあってもいいから刺激的な地獄が欲しいのか。

遊戯王カード

遊戯王カードってあるじゃないですか。
あれ好きだったんだよね、小学生のころ。
でも、友達がいなかったからほとんど遊び相手なんかいなかったんだよね。
でも兄だけはその相手をしてくれてた。
スポーツもできて、お洒落で僕とは正反対だった。学校でも人気者の兄だった。
弟とカードゲームをしているなんて兄は誰にも言わなかった。
学校ではだれにも言ってはいけない秘密だった。
そのあと兄が大学生になっても相手になってくれたりもした。
僕はその優しかが大好きで、でも同時に憎らしくもあった。
高校生になってからは友達も少しはできて、カードゲームなんてまったくしなくなった。
兄と話すこともすくなくなった。


たまたまyoutube遊戯王カードで遊ぶ動画を見て、とても懐かしかった。
ルールとかだいぶ変わってるんだねえ。良い大人が遊んでいるのだけど、すごく楽しそうだった。
友達とカードゲームができて羨ましいと思った。僕にもそんな友達がいたらよかったのにね。
一つのことをずっと好きでいられることも羨ましかった。
僕はいつも何かを捨てていったりとか、それまでの自分をいつも裏切ってきてばかりだなぁと思うと、
自分の人生が空しかった。


まぁ、でも、人って毎日細胞がいくつ死んでは生まれ変わっていくものらしいよ。
変わりたいと思う気持ちって自殺だよね。
毎日生きて死んでを繰り返して、
そういえば、人には生来自分を殺したいという気持ちが、破壊したいという気持ちがあるらしい。
どこか行き詰ったときに全部をぶっ壊して、また生きなおしたいと思うことも、リストカットしたり自殺したりすることも、
異常なことではなく普通のことらしい。

 


僕は小さいころ、おにごっこで捕まると「僕は最初からやってないもん」と、言うような子どもだったのだと母から聞いた。
今も何も変わっていないのかもしれない。もうずっと前からダメだったのだけれど、ずっと気づかないふりをしていただけなのかもしれない。

何も好きなものはない。全て嫌い、


今、現状は幸せというか恵まれた状態なのだと思うのだけれど、
それをどこかで捨て去りたいと思う気持ちもある。


しかし、孤独ではないとうことは、今までの僕の人生になかったことだ。
安定を捨ててもいいのかと思うのだけれど、
でも別にそんなもの重要なものではないか、とあきらめ、
僕は裏切りの旅を続けるばかりで、幸せに安住できる人間ではないのかもしれない。


幸せに安住できない人間というものはいるのだよ。
幸せに安心できない、どこまでも不幸でいることにしか満足できない人ということがあるのだよ
しかし、まぁみんなそうか。みんな生きて死んで一人でいるだけか。

好きなものも好きになり切れないなんて、なんて惨めなのだろう。
毎日好きと嫌いを繰り返し、繰り返し…。もう惰性で一緒にいるだけなのかもしれない。
未来を期待できない、この先・何もないということが待っているだけ、
というのは退屈でつらいなあ

人間って成長するとかよく仕事で言われるけど、
成長っておかしくない?人はどんどん進歩するとか、競争するとか勝負するとか
そうゆうのって何か取り違えているのではないか。
それは回転木馬のデットヒートだね。同じところをぐるぐると堂々巡りしているだけ。
あーでも、そんなこと皆分かってるけど、その気持ちを飲み込んで、信じているふりをしているいい子ちゃんなんだね。


結婚するとか、子供を持つ、家庭を持つなんてこと僕の人生にはこれから一生ない訳だから
普通の幸せ、なんてないのだから、
でもそうならどうすればいい?

 

脳みそは頭蓋骨からのがれられない

「さびしさである」
こーして私はいつも友だちが欲しいのだが
そのキモチはいつも誰かにつつぬけで
その誰かは、私がトモダチにしたいと思う誰かを
鳥につつかせたり
階段の最後の段でつまずかせたり
醜悪な悪口をいいふらさせたり
ケーキに毒をしこんだり
夢に出てきて首をはねたり
つまるところ…


脳みそであった。


トモダチが欲しいのは私ではなく脳みそ
サビシガリヤはワタシではなくノウミソ

はてしなくつなぎあうニューロンの白い手と手
だがやがて頭蓋骨の暗い壁につきあたり
自分が暗黒の中にとじこめられていることに気づく

「サビシサ」とは頭蓋骨の暗黒の中にほの白くただずむ脳みそのキモチそのものであり

私なんかは脳みそに捧げる唄なんか作ったのであった。

 


脳みそは頭蓋骨からのがれられない
脳みそは頭蓋骨からのがれられない
脳みそは頭蓋骨からのがれられない

 

 

こうして私は脳みそちゃんのトモダチ探しの旅につきあうとこになった。


あるはずのない

ドアを開けて


しりあがり寿『ア〇ス』

書を捨てよ、地獄におちろ

この世の全てを呪いたい。

 


なぜ僕は他人に興味がないのだろう。
興味、関心がないということ。
今隣で働いている人の出身地や趣味さえ知らない。
別に知ろうとも思わない。

 

 

高校生のころ、友達いたのだけれど、今連絡を取り合うような人は誰もいない。
自分が好きになるひとは自分と同じ趣味の人が良いと思う。
でもそれってきっと、自分をわかってほしいことの現れなんだと思う。
そのくせ、他人には興味がないのだから、タチが悪い。
自分自分自分。
自分のことしか頭にない。
あーでもそれってみんなも同じ?同じなんですか?

 

 

ずっと一人でもいいのにたまに友達が欲しいと思うのってなんなのだろう。
そう思ってしまう自分はみじめだ。

 

 

 

感情の起伏がない。とても毎日穏やかだけど、それは心が死んでいるからだと思う。
仕事ではまったく、何も感じない。感じないようにしている、というのと、
感じなくなってしまったというのが半分半分。

音楽や小説、漫画もそれぞれ好きなのだけれど、今まで救われたのだけれど、
それさえも心の底からは信用していないという気持ちがある。
中途半端、勇気がない、何も信じていないんだよね。
だから何も成し遂げることはできないのだ。

 

 

 

小説って昔は好きだったのだけれど、仕事をすると忙しくてなかなか読めなくなって、
それが本当に自分に必要なものなのかと思ってしまうようになってしまった。

僕は昔から本が好きだったのだけれど、それは親に褒められるためだったのだろう。
しかし、親が望むのはそうした子供ではなかった。
父は息子とスポーツを楽しみたいと思っていたのだろうけれど、
僕は少しもスポーツなんてできやしなかった。
勉強は少しはできたのだけれど、それはあまり親の望む姿ではなかったのかもしれない。
読書をすると先生に褒められる、とか頭が良くなるってそういうことってくだらないけれど、
僕はそこにそこだけに執着してしまっていたのかもしれない。

本を読むことが何かの役に立つ、プラスになる、良い印象になるから単に好きだっただけ。

 

 

 

大学でも、本を読むということは結局なにか、レポートとか書くときにそこに引き寄せることができるから便利だった。
でも、今は仕事関係以外のの本を読んだって、そこから何かに繋げることはできなくなってしまった。
いや、自分の生活が豊かになるとか、ただ単に楽しいから読むということでよいのだけれど、
でも僕は心が貧乏なので、自分の体験をなにかに繋げたいと思ってしまう。
しかし、僕はまったく人生の目標や計画がないのに、どうして人生にムダだとかプラスだとかそういったことが判断できるのだろうか。

好きな仕事、とか、自分の好きなものに関わっていれば、自分が体験した芸術はその参考にできたりするけれど、
僕はそういった仕事を辞めてしまってまったく別の仕事についてしまってわけである。

 

 

 

小説家とか、文章を仕事にできる人になりたかったな。
でも、小説に希望を持っているわけではない。それで自分が救われることができれば、それならそれが良いのかもしれない。
いや一方で小説が売れない時代にそんなことしても、生計を立てられるわけでもない。
また本が好きな人というのはみんな何か本を読むということを偉いと思い込んでいるようないけ好かないやつばかりだ。
退屈でつまらないやつばかりだ。それに学生時代はともかく、自分は仕事を始めてから、
本を読みたいと思って、本を読んで救われたことがあっただろうか。ないだろう、本を読むということには体力が必要なのである。
それは一種のぜいたく品なのだと思う。

 

自分は何も作れない。自分は何かを表現できるような価値のない人間だ。

 

価値のない人間だ。

坂口安吾

坂口安吾が大好きです。彼が、わたしに生きること、死ぬこと、孤独であること戦うことを教えてくれました。

 

 

この三つの物語が私たちに伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。


(中略)

 

それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私はいかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野をさまようだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであるようと同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。


文学のふるさと

 

 

 

 

 

 

ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれもでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。
(中略)
しかし、人生は由来、あんまり円満他行なものではない。愛する人は愛してくれず、ほしいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口を広げて待っている。強者ほど、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。


(中略)

 

人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさがわかるほかに偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりだろう。そのくせ、恋なしに人生は成り立たぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また明記しなければならない。
人生において、もっとも人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを恐れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたさぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうことなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうおとも、このほかに花はない。

 

恋愛論

 

 

 

 


私は風景の中で安息したいとは思わない。また、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は墜ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ、わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。

 

デカダン文学論』

 

 

 

 

 

 

 

 

生きることだけが、だいじである、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。ほんとうは、わかるとか、わからんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありゃせぬ。おまけに、死ぬほうは、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、戦い抜いてみせなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことをやるな。いいつでもできることなんか、やるもんじゃないよ。


(中略)

 

しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思うときが、あるですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は、きめている。是が非でも。生きる時間を生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。

 


『不良少年とキリスト』

よくある退屈な話

2年前に転職をした。

前職は新卒で入った会社で、自分の好きなものに関わる仕事だった。

決して給料が高くないということは分かっていた。
しかし、些細な事かもしれないけれど、自分を表現できて、好きなものを応援できる仕事だと思うと嬉しかった。

 

 

そのころの僕は自分のやりたいこと、好きだと思うもののためなら、どれだけの努力も惜しまないつもりだった。
一日中仕事ができる環境だった。13時に出勤して帰るのは翌朝の7時、休みは週に1度だった。
最初の1年間は連休も取ったこともなかった。食事は歩きながら済ませた。
身体が頑丈なことだけが取り柄な僕は、毎日毎日働き続けた。

ちょうど上司からも認められるようになったとき、部署の異動があった。
今までの努力は何だったんだという気持ちでいっぱいで、その部署では仕事を早く切り上げることだけが目的だった。
懇願して一年後には元の部署に戻ったのだけれど、前のように熱意が持てなくなっていた。
いや、熱意ではなく、本当は隷属だったのかもしれない。僕は上司の言うことなら徹底的に従った。それは一種の信仰だった。(しかし、全ては思い込みで、僕はただ一つの思い込みから抜け出したと勘違いしているだけでまた別の思い込みにハマるだけなんだろう)

働くうちに、会社が人を使い捨てにするような姿勢や、サービス残業を強いるような体制、
出口の見えない山積みの問題に嫌気がさしてきた。

 

また、自分は誰にも心を開けない人間なのだと、それも分かってきた。
僕の心は二重扉で一つのカギは僕にも在処が分からなかった。

僕は自分勝手なのだと思う。きっとそうなのだろう。

就職するときに、好きなものと自分が無関係になるような人生は嫌だと思った。
それに何かしら関わって生計を立てたいと思った。

 

 

しかし、僕はその仕事を辞めた。
そもそも自分が好きなものとは何なのだろうと考えた。
かけがえのないもの、どうしても譲れない信念。
それが僕にはないと気づいた。
全てを捨てても良い。何も大切なものなんてなかった。
自分がからっぽだということに気づいた。
そして、再就職活動をするなかで、自分がいかに市場価値のない人間か、技術のない人間か分からされた。

 

 

今は自分の好きなものとはかけ離れた仕事についている。
どんな仕事についても変わらないと思ったからだ。

 

 

何によっても、心が動かされることがない。
これから何か自分を突き動かすものに出会う可能性はあるのだろうか。
自分の人生が今では遠くから眺めた余生のようにも思える。
そう思うと吐き気がする。

 

 

僕はなにか重大な勘違いをしていた。
理想の仕事に就ける人というのは、それなりの、相応の、そのための努力をしてきた人なのだ。

 

僕はただ真面目なだけで、努力もそこに向けて費やされたものではなかった。
20歳の大人が、未経験からピアノを練習してピアニストになれるだろうか。
もうずっと前から、僕の可能性というのは決まっていた。

 

いつかもっとしっかりと目標を決めていれば…。
しかし全てはもう遅いのだった。
時間は巻き戻せない。過去に戻ることはできない。
今ある自分で何ができるか考えるか、あるいは全てを諦める他ないのだろう。

 

将来のことをきちんと考えられていなかった。自分の満足いく大学も行ったのだけれど、最初にこの道を選んでしまったのは間違いだった。


何も本気ではなかった。こんな人生になるはずだったのだろうか。