お墓

行き場のない言葉や気持ちの墓場です。

明日も雨が降ればいい

シーソーのように揺れる毎日
幸せと自由を天秤にかける
快楽と幸福は違うんだよ

ある人のことを思い出した。
何か重い病気にかかってしまって、薬の副作用か何かで頭がおかしくなってしまった。
一度お見舞いに行ったのだけれど、よだれを垂らしながら、目は虚ろで、足だけがベットの上を這うように動いていた。
見ていられなかった。
それからその人は命には別状なく退院したのだけれど、思考回路が幼児のようになってしまっていたようだった。
僕は一時期その人にお世話になっていたから、悲しかったのだけれど、何もできずにただ見ているだけだった。
でも、何もできなかったのは僕だけでなく両親もだし、その家族もだった。
いや、なにか努力を尽くしたのだろうか。分からない。

彼女は何の病気だったのだろう。
知能が退行してしまうような副作用のある薬なんて存在するのだろうか。


同性愛者というのはなぜ存在するのだろう。
生物というのは須らく自分の種を存続するために生きている。
人間は子供を産むことで、遺伝子は不死だということもできるかもしれない。
同性愛というのが社会の均衡に必要な役割だから、というような説も聞いたことがあるけれど、本当だろうか?
子どもを産まずに、お互いの性器を弄り合うだけで何の生産性も持たない性行為。
やはりある種の欠陥商品のようなものなのだろうか。
あるいは、何の意味もないのだろうか。

生物が個々に違うというのは、、
いろいろな環境へ対応するためのバリエーションなのだという。
寒いのに強い人、暑いのに強い人、とか体質でも様々あるけれど、ある程度ランダムに個体を作りだすことで、
一つのなにか巨大なインパクトにも耐えられるようにしているらしい。ある種は死滅しても、ある種は生き残るように少しづつ変化を持たせているのだという。
しかし、そうすると同性愛もなにかそうした種の保存のためのバリエーションの一つなのだろうか。


テレビで見たのだけれど、50代の男性が女装をきっかけに自分のなかにある
女性への変身願望に気づいてしまい、それからキャバクラ嬢のように露出度の高い服で、女言葉を使って生活するようになったってドキュメンタリー。
悲劇なのは、彼には奥さんがいて、奥さんは彼のことを愛しているし、彼も性的な対象は女性のままで、彼女のことを愛しているということ。

奥さんは可哀想だったなぁ。何年も連れ添った旦那だからいきなり離れるわけには行かないし。でもどこか出かけるときは、女装した老年男性がギリギリのミニスカートをはいて隣を歩く。
旦那が女装に目覚めてしまったからというより、自分の信じてきたものが意味の分からないものに侵食され壊されてしまったということが、
本当に絶望だなと思った。奥さんへの愛情や世間体よりも、「自分が女性として生きる」ということを選んでしまうなんて滑稽で惨めなことなんだろう。


でも、実際に人の心そんな風に急に変わってしまうものなんだろうな。
朝は機嫌が悪い、とか誰にでもよくあることだけれど、
人間の心って流動的で、形があるようで、そんなものは実はなくて、ある日メルトダウンしてしまうようなものなんだろう。
僕は僕の好きな人が、そうなってしまうことが、本当に怖い。

しかし、自分自身のことで言えば、どこかそんなふうに、地球の磁場が逆転するかのような、
大きく心を揺さぶる出来事を求めているような気もする。

みんな、自分を壊したいと思っているのだろうか。みんな、結局もう大切なものなんてなくて、自分がどうなってもいいと思ってるんだね。
なにもない空虚な退屈よりも、どんなつらい目にあってもいいから刺激的な地獄が欲しいのか。

遊戯王カード

遊戯王カードってあるじゃないですか。
あれ好きだったんだよね、小学生のころ。
でも、友達がいなかったからほとんど遊び相手なんかいなかったんだよね。
でも兄だけはその相手をしてくれてた。
スポーツもできて、お洒落で僕とは正反対だった。学校でも人気者の兄だった。
弟とカードゲームをしているなんて兄は誰にも言わなかった。
学校ではだれにも言ってはいけない秘密だった。
そのあと兄が大学生になっても相手になってくれたりもした。
僕はその優しかが大好きで、でも同時に憎らしくもあった。
高校生になってからは友達も少しはできて、カードゲームなんてまったくしなくなった。
兄と話すこともすくなくなった。


たまたまyoutube遊戯王カードで遊ぶ動画を見て、とても懐かしかった。
ルールとかだいぶ変わってるんだねえ。良い大人が遊んでいるのだけど、すごく楽しそうだった。
友達とカードゲームができて羨ましいと思った。僕にもそんな友達がいたらよかったのにね。
一つのことをずっと好きでいられることも羨ましかった。
僕はいつも何かを捨てていったりとか、それまでの自分をいつも裏切ってきてばかりだなぁと思うと、
自分の人生が空しかった。


まぁ、でも、人って毎日細胞がいくつ死んでは生まれ変わっていくものらしいよ。
変わりたいと思う気持ちって自殺だよね。
毎日生きて死んでを繰り返して、
そういえば、人には生来自分を殺したいという気持ちが、破壊したいという気持ちがあるらしい。
どこか行き詰ったときに全部をぶっ壊して、また生きなおしたいと思うことも、リストカットしたり自殺したりすることも、
異常なことではなく普通のことらしい。

 


僕は小さいころ、おにごっこで捕まると「僕は最初からやってないもん」と、言うような子どもだったのだと母から聞いた。
今も何も変わっていないのかもしれない。もうずっと前からダメだったのだけれど、ずっと気づかないふりをしていただけなのかもしれない。

何も好きなものはない。全て嫌い、


今、現状は幸せというか恵まれた状態なのだと思うのだけれど、
それをどこかで捨て去りたいと思う気持ちもある。


しかし、孤独ではないとうことは、今までの僕の人生になかったことだ。
安定を捨ててもいいのかと思うのだけれど、
でも別にそんなもの重要なものではないか、とあきらめ、
僕は裏切りの旅を続けるばかりで、幸せに安住できる人間ではないのかもしれない。


幸せに安住できない人間というものはいるのだよ。
幸せに安心できない、どこまでも不幸でいることにしか満足できない人ということがあるのだよ
しかし、まぁみんなそうか。みんな生きて死んで一人でいるだけか。

好きなものも好きになり切れないなんて、なんて惨めなのだろう。
毎日好きと嫌いを繰り返し、繰り返し…。もう惰性で一緒にいるだけなのかもしれない。
未来を期待できない、この先・何もないということが待っているだけ、
というのは退屈でつらいなあ

人間って成長するとかよく仕事で言われるけど、
成長っておかしくない?人はどんどん進歩するとか、競争するとか勝負するとか
そうゆうのって何か取り違えているのではないか。
それは回転木馬のデットヒートだね。同じところをぐるぐると堂々巡りしているだけ。
あーでも、そんなこと皆分かってるけど、その気持ちを飲み込んで、信じているふりをしているいい子ちゃんなんだね。


結婚するとか、子供を持つ、家庭を持つなんてこと僕の人生にはこれから一生ない訳だから
普通の幸せ、なんてないのだから、
でもそうならどうすればいい?

 

脳みそは頭蓋骨からのがれられない

「さびしさである」
こーして私はいつも友だちが欲しいのだが
そのキモチはいつも誰かにつつぬけで
その誰かは、私がトモダチにしたいと思う誰かを
鳥につつかせたり
階段の最後の段でつまずかせたり
醜悪な悪口をいいふらさせたり
ケーキに毒をしこんだり
夢に出てきて首をはねたり
つまるところ…


脳みそであった。


トモダチが欲しいのは私ではなく脳みそ
サビシガリヤはワタシではなくノウミソ

はてしなくつなぎあうニューロンの白い手と手
だがやがて頭蓋骨の暗い壁につきあたり
自分が暗黒の中にとじこめられていることに気づく

「サビシサ」とは頭蓋骨の暗黒の中にほの白くただずむ脳みそのキモチそのものであり

私なんかは脳みそに捧げる唄なんか作ったのであった。

 


脳みそは頭蓋骨からのがれられない
脳みそは頭蓋骨からのがれられない
脳みそは頭蓋骨からのがれられない

 

 

こうして私は脳みそちゃんのトモダチ探しの旅につきあうとこになった。


あるはずのない

ドアを開けて


しりあがり寿『ア〇ス』

書を捨てよ、地獄におちろ

この世の全てを呪いたい。

 


なぜ僕は他人に興味がないのだろう。
興味、関心がないということ。
今隣で働いている人の出身地や趣味さえ知らない。
別に知ろうとも思わない。

 

 

高校生のころ、友達いたのだけれど、今連絡を取り合うような人は誰もいない。
自分が好きになるひとは自分と同じ趣味の人が良いと思う。
でもそれってきっと、自分をわかってほしいことの現れなんだと思う。
そのくせ、他人には興味がないのだから、タチが悪い。
自分自分自分。
自分のことしか頭にない。
あーでもそれってみんなも同じ?同じなんですか?

 

 

ずっと一人でもいいのにたまに友達が欲しいと思うのってなんなのだろう。
そう思ってしまう自分はみじめだ。

 

 

 

感情の起伏がない。とても毎日穏やかだけど、それは心が死んでいるからだと思う。
仕事ではまったく、何も感じない。感じないようにしている、というのと、
感じなくなってしまったというのが半分半分。

音楽や小説、漫画もそれぞれ好きなのだけれど、今まで救われたのだけれど、
それさえも心の底からは信用していないという気持ちがある。
中途半端、勇気がない、何も信じていないんだよね。
だから何も成し遂げることはできないのだ。

 

 

 

小説って昔は好きだったのだけれど、仕事をすると忙しくてなかなか読めなくなって、
それが本当に自分に必要なものなのかと思ってしまうようになってしまった。

僕は昔から本が好きだったのだけれど、それは親に褒められるためだったのだろう。
しかし、親が望むのはそうした子供ではなかった。
父は息子とスポーツを楽しみたいと思っていたのだろうけれど、
僕は少しもスポーツなんてできやしなかった。
勉強は少しはできたのだけれど、それはあまり親の望む姿ではなかったのかもしれない。
読書をすると先生に褒められる、とか頭が良くなるってそういうことってくだらないけれど、
僕はそこにそこだけに執着してしまっていたのかもしれない。

本を読むことが何かの役に立つ、プラスになる、良い印象になるから単に好きだっただけ。

 

 

 

大学でも、本を読むということは結局なにか、レポートとか書くときにそこに引き寄せることができるから便利だった。
でも、今は仕事関係以外のの本を読んだって、そこから何かに繋げることはできなくなってしまった。
いや、自分の生活が豊かになるとか、ただ単に楽しいから読むということでよいのだけれど、
でも僕は心が貧乏なので、自分の体験をなにかに繋げたいと思ってしまう。
しかし、僕はまったく人生の目標や計画がないのに、どうして人生にムダだとかプラスだとかそういったことが判断できるのだろうか。

好きな仕事、とか、自分の好きなものに関わっていれば、自分が体験した芸術はその参考にできたりするけれど、
僕はそういった仕事を辞めてしまってまったく別の仕事についてしまってわけである。

 

 

 

小説家とか、文章を仕事にできる人になりたかったな。
でも、小説に希望を持っているわけではない。それで自分が救われることができれば、それならそれが良いのかもしれない。
いや一方で小説が売れない時代にそんなことしても、生計を立てられるわけでもない。
また本が好きな人というのはみんな何か本を読むということを偉いと思い込んでいるようないけ好かないやつばかりだ。
退屈でつまらないやつばかりだ。それに学生時代はともかく、自分は仕事を始めてから、
本を読みたいと思って、本を読んで救われたことがあっただろうか。ないだろう、本を読むということには体力が必要なのである。
それは一種のぜいたく品なのだと思う。

 

自分は何も作れない。自分は何かを表現できるような価値のない人間だ。

 

価値のない人間だ。

よくある退屈な話

2年前に転職をした。

前職は新卒で入った会社で、自分の好きなものに関わる仕事だった。

決して給料が高くないということは分かっていた。
しかし、些細な事かもしれないけれど、自分を表現できて、好きなものを応援できる仕事だと思うと嬉しかった。

 

 

そのころの僕は自分のやりたいこと、好きだと思うもののためなら、どれだけの努力も惜しまないつもりだった。
一日中仕事ができる環境だった。13時に出勤して帰るのは翌朝の7時、休みは週に1度だった。
最初の1年間は連休も取ったこともなかった。食事は歩きながら済ませた。
身体が頑丈なことだけが取り柄な僕は、毎日毎日働き続けた。

ちょうど上司からも認められるようになったとき、部署の異動があった。
今までの努力は何だったんだという気持ちでいっぱいで、その部署では仕事を早く切り上げることだけが目的だった。
懇願して一年後には元の部署に戻ったのだけれど、前のように熱意が持てなくなっていた。
いや、熱意ではなく、本当は隷属だったのかもしれない。僕は上司の言うことなら徹底的に従った。それは一種の信仰だった。(しかし、全ては思い込みで、僕はただ一つの思い込みから抜け出したと勘違いしているだけでまた別の思い込みにハマるだけなんだろう)

働くうちに、会社が人を使い捨てにするような姿勢や、サービス残業を強いるような体制、
出口の見えない山積みの問題に嫌気がさしてきた。

 

また、自分は誰にも心を開けない人間なのだと、それも分かってきた。
僕の心は二重扉で一つのカギは僕にも在処が分からなかった。

僕は自分勝手なのだと思う。きっとそうなのだろう。

就職するときに、好きなものと自分が無関係になるような人生は嫌だと思った。
それに何かしら関わって生計を立てたいと思った。

 

 

しかし、僕はその仕事を辞めた。
そもそも自分が好きなものとは何なのだろうと考えた。
かけがえのないもの、どうしても譲れない信念。
それが僕にはないと気づいた。
全てを捨てても良い。何も大切なものなんてなかった。
自分がからっぽだということに気づいた。
そして、再就職活動をするなかで、自分がいかに市場価値のない人間か、技術のない人間か分からされた。

 

 

今は自分の好きなものとはかけ離れた仕事についている。
どんな仕事についても変わらないと思ったからだ。

 

 

何によっても、心が動かされることがない。
これから何か自分を突き動かすものに出会う可能性はあるのだろうか。
自分の人生が今では遠くから眺めた余生のようにも思える。
そう思うと吐き気がする。

 

 

僕はなにか重大な勘違いをしていた。
理想の仕事に就ける人というのは、それなりの、相応の、そのための努力をしてきた人なのだ。

 

僕はただ真面目なだけで、努力もそこに向けて費やされたものではなかった。
20歳の大人が、未経験からピアノを練習してピアニストになれるだろうか。
もうずっと前から、僕の可能性というのは決まっていた。

 

いつかもっとしっかりと目標を決めていれば…。
しかし全てはもう遅いのだった。
時間は巻き戻せない。過去に戻ることはできない。
今ある自分で何ができるか考えるか、あるいは全てを諦める他ないのだろう。

 

将来のことをきちんと考えられていなかった。自分の満足いく大学も行ったのだけれど、最初にこの道を選んでしまったのは間違いだった。


何も本気ではなかった。こんな人生になるはずだったのだろうか。

 

 

世界の根拠のなさについて

世界の根拠のなさについて(2001)
 高橋悠治

 

かれは 何についてでも語ることができる
意味のあることを
わたしは そんなことはしたくない と
ウンベルト・エーコについて ジル・ドゥルーズが言ったとか
インド洋にいるアメリカの航空母艦の甲板から次々に飛び立ち
闇のなか 機械に導かれたコースをたどり
機械が指した場所で爆弾を落とし
飛び還っては次の爆弾を装填し
こんなことが あたりまえのように淡々とすすむ
この世界で
夜の下界にどんなひとたちが息づいているのかを 感じることもなく
ふと立ち止まることもなく
何百万ドルかの武器を黙々と消尽する この空爆
世界貿易センターの破壊は ヒロシマよりひどい と
ふつうのアメリカ人は思っているらしい
アメリカのこどもたちの平和がいつまでもつづくように と
アフガニスタンのひとびとの泥の家をもとの泥にもどす爆撃が
毎日毎晩つづく
こんな世界にも
意味があるかのように語り
原因 条件 動機を分析し
やるべきことと やってはならないことを分別し
非難し 糾弾し 警告し
論じ 論じ 論じ 論じて
それでどうなる

自由とは必然の洞察だ と言ったのはヘーゲルだったか
世界を理解することではなく
世界を変革することだ と言ったのはマルクスだったか
それから世界はたしかに変わった
過去は変えられないとすれば それはたしかに必然だった
では 洞察はただしかったのか
理解はただしかったのか
ただしいとは いったい何だろう
そして どこに自由があるのだろう
アメリカはただしかった
だからアメリカは 世界を思うままにうごかすことができた
歴史は終わった とフランシス・フクヤマは言った
必然の洞察は 欲望の自由なのか

一方にただしさがあれば もう一方にまちがいがある
善があれば 悪がある
まちがいを まちがいのままにしておけない と
ことばの力で まちがいを ただし
悪がはびこるのは許せないと
暴力で 善を勝たせる
だが 論理があれば反論がある
勝利した善は 新たな悪と対面する
あるいは 勝ち誇った善が悪に変わる

インターネットに飛び交うことばとことば
イード ソンタグ チョムスキー あるいは
報復攻撃にただひとり反対したアメリカ下院議員バーバラ・リー
イマニュエル・ウォラーステインのコメンタリー
スラヴォイ・ジジェクの分析と だれかの反論 そして論争
ヴィリリオデリダのインタビュー
よめばよむほど そうだ そのとおりだ 鋭い指摘だ
と言いたくなるが それは感情が言わせているだけではないか
それらのことばがほんとうに言っているのは ただ
わたしはここにいる ということ
わたしは ここにいる 流れに逆らって ただひとり
それらのことばが照らし出すのは それを言うものの顔
その名前 知識人というその肩書
論理がただしく 指摘が鋭いということは
だれのためになるのか
ことばは だれをうごかすのか

考えてごらん マールンキャープッタよ 毒を塗り重ねた矢で傷ついた男がいて
ともだちや仲間 身内や親戚が医者を連れて来る
ところがこの男は言うのだ
この矢を医者に抜かせる前に
傷つけたものが貴族か神官か商人か職人か知りたい
そいつの名前と素性を
背が高いか低いか中くらいか
皮膚は黒いか白いか
どこの村 どの町 どの都のものか
その弓は長いか短いか
弦は繊維か葦か筋か麻か樹皮か
軸は野生か畑のものか
羽根は禿げ鷲か烏か鷹か孔雀か鸛か
紐は牛の筋か水牛か獅子か猿か
矢は馬蹄形か曲がっているかギザギザか歯形か毒矢か
などと言っているうちに 男は死んでしまうだろう
  (中部経典 マールンキャープッタ小経)

世界はことばでうごかせるか
うごかせるとしたら
それは 世界を暴力でうごかすのと どこがちがうだろう
いま起こりつつあることがらも もう過ぎてしまったかのように
ことばは うごいて止まないものを 一瞬つなぎとめる
そして ことばはことばを呼ぶ
ことばはことばを凝視する
そのあいだも
爆弾はことばを持たないものたちの上に 花びらのように降る

現実は だれのものでもない
思うままにうごかせないから 世界はある
世界に意味があったら こんなにも多くの苦しみがあるだろうか
情報によって 知識によって はっきり見透せるものなら
世界は こんなふうになっていただろうか
こんな世界を ありのままに見ることは
もうひとつの苦しみだからといっても
なにかをしなければならないと思い
なにかできることがあるはずだと信じて
安全なところでうろうろしている
このありさまを見たら
空爆の下で毎日を生きているひとびとは どう感じるだろう

かみさま
あなたのひこうきが まいにち やってきます
きのうも ぼくたちのテントに
ばくだんを おとしていきました
ぼくははしって いわかげに かくれました
わらって わらって わらいました
パレスチナの子どもの神さまへのてがみ)

ゴミ

Twitterを辞めました。
大学のころからやってたし、もう何年経っていたんだろう。
すごく時間が無駄にした気がして。
(しかし、ムダとはなんだろう。人生から無駄なものをそぎ落すことは、自らの足を食べる蛸と同じではないか
そういえば萩原朔太郎だっけ?そんな小説を書いたのは。)

何の発言もしなかった。ただ、ひとのつぶやきを見るだけ。
5年ほどだろうか、一方的に自分が彼らの日常を眺めていた。
いつの間にか、僕と彼らは知り合いなのではないかと思ってきてしまうくらいなのだけれど、
実際僕と彼らの間には何の関係もない。その関係が心地よくもあった。

人が人と繋がればつながるほど、全ては悪い方向に向かっていく。
かつてカナダのメディア学者マクルーハンは世界がインターネットでつながる事によって
孤立と個人主義が取り払われた、ひとつの原始的で部族的な村になると言った。

人と人が繋がることで、生まれるのは理解ではなく、境界と暴力だ。
人は変わらない。人は分かりあうことができない。
人が分かりあえるというのは幻想だ。


世界中の全ての人が各々誰もに対して無関心であることを祈る。

 

 

 


これは自己満足のための文章です。
自慰であり自瀆であり、しかも一種の治療なのかもしれない。
フロイト精神分析のなかで、自由連想法という方法を取った。
心に浮かぶものを自由な考えのままに連想していくことで、深層心理を顕在化する。
ここで重要なのは聞き手がいることだ。誰かがそれを聞くことこそに意味がある。

 

 

東京の近郊で生まれ、1歳年上の姉と5歳離れた妹がいる。親戚も女だらけで、男の兄弟が羨ましかった。
近所には優しいお兄ちゃんがいて、よく遊んでもらったな、思えばそれも原因だったかもしれない。
僕は幼いころからヒーローものには興味がなく、セーラームーンが好きだったらしい。
我ながら気持ち悪い。今となっては覚えてはいないことだ。


ある日夢をみた。小学四年生くらい。
アニメのキャラクターが出てきてその人は頼りがいがあって、すごくかっこよかった、みたいな夢。
いや、それよりももっと前かもしれない、小学一年生のころに読んだ児童書の主人公に憧れた。
もともと男が好きだったから、好きになったのか、
それとも兄という存在に憧れていたから、男を好きになったのだろうか。
分からない。鶏が先なのか卵が先なのか。

とにかく僕は物心ついたときから男が好きだった。
しかし幼稚園のころは、好きな女の子がいたということを母から聞いた。

いつから変わってしまったのだろう。


でも自分が男を好きということにあまり疑問も持たないまま、
それほど悩まないまま、成長した

 


というのは嘘かもしれない。

小学生のころは、スイミングスクールに通っていた。
運動が苦手な僕が唯一できるスポーツだった。
気になる男の子のちんこがみたかった。バスタオルからのぞく、まだ包皮に包まれたそれ。
タオルをすこし突き上げている勃起していることもあったそれ。
小学5年生ころからオナニーを覚えた僕は毎日悶々としていた。
想像のなかで何人ものクラスメイトと犯しあった。
僕がひっそりと覗いていたある子が、同じ中学に進学していたのに気づいた。
僕は水泳部に入ろうかと思っていたのだけれど、そうやって覗いていたのがばれているのではないかと怖く、入部できなかった。

 


そういえば、中学のころはとても孤独だった。
男を好きだということは異常だと思った。いや、今でも異常だと思っている。
気持ち悪い、と思っている。男なのに男を好きなのは自分だけなのではないかと思っていた。

 

 

中学三年生のころに、遅くまで塾に通うということを口実にして携帯電話を買ってもらった。
そこでゲイの出会い系の掲示板を見漁った。
気になる人にはメールをして、自分からも掲示板に載せることもあった。


初体験の相手は中学3年生の終わり、19歳の浪人生だった。
彼は関西から受験のためホテルに泊るのだった。
メール、電話、いやらしい写真を送りあった。半年ほどやりとりをしただろうか。

思い返すと、全然好みのタイプではなかったのだけれど、
エロいことをしてくれる、自分を求めてくれるということだけでうれしかった。
でも、彼は僕のことが好きではなかった。好きという言葉に好きと返してくれることはなかった。
僕はただの性的な道具だった。
なんであのころは無性に寂しかったのだろう。

セックスって、子供の最後の夢だよね。
僕の最後の夢は我慢汁と精液と唾液でぐちょぐちょで、
やさぐれて口から好きですという言葉が零れ落ちると床にぶつかって粉々に砕け散った。
好きな人とセックスをすれば幸せになれる、救われる、世界が変わると思っていた。
実際好きな人に好かれようと努力することで、僕は変わった。
身なりにも気を付けるようになった。どうすれば魅力的に見えるか考えた。
セックスしてもそれが好きということには繋がらないと分かった。
同じ同性愛者でも分かり合えるわけではないということが分かった。
どうしても手に入れたいものも、努力して手に入るわけではないということが分かった。

 

 

高校生になって、ゲイのいろいろな人と出会うようになった。
ファミレスの店長、弁護士、外資系のサラリーマン、声優を目指す学生、バンド活動をするフリーター、塾講師…。
それぞれセックスしたりしなかったり、
高校生っていうだけで良い価値がついたのかもしれない。

 


初めて付き合ったひとは、28歳で元海上自衛隊のフリーターだった。
朝早くおきて彼の住む埼玉まで向かった。演歌歌手を目指しているらしく、よくつまらないカラオケに付き合わされた。
大きなアリの巣が並んでいるような団地に住んでいた。それは大きな集団墓地のようでもあった。
母と同居していて、母が隣の部屋にいるのに、よくセックスした。
性欲が強く、一回のセックスですぐに二回の射精ができる人だった。
彼はつまらない嘘で、仮病でバイトを休んだ。
高校生になりたての僕が見てもダメな人だと分かった。でも求められるのが嬉しくて、付き合ってしまった。

 


僕は僕が嫌い。自信がないのだと思う。
誰にも必要とされないという想いがどこかにあるのかもしれない。

高校のうちにもう一人と付き合って、あとは大学生の間は適当に何人かとセックスした。