お墓

行き場のない言葉や気持ちの墓場です。

書を捨てよ、地獄におちろ

この世の全てを呪いたい。

 


なぜ僕は他人に興味がないのだろう。
興味、関心がないということ。
今隣で働いている人の出身地や趣味さえ知らない。
別に知ろうとも思わない。

 

 

高校生のころ、友達いたのだけれど、今連絡を取り合うような人は誰もいない。
自分が好きになるひとは自分と同じ趣味の人が良いと思う。
でもそれってきっと、自分をわかってほしいことの現れなんだと思う。
そのくせ、他人には興味がないのだから、タチが悪い。
自分自分自分。
自分のことしか頭にない。
あーでもそれってみんなも同じ?同じなんですか?

 

 

ずっと一人でもいいのにたまに友達が欲しいと思うのってなんなのだろう。
そう思ってしまう自分はみじめだ。

 

 

 

感情の起伏がない。とても毎日穏やかだけど、それは心が死んでいるからだと思う。
仕事ではまったく、何も感じない。感じないようにしている、というのと、
感じなくなってしまったというのが半分半分。

音楽や小説、漫画もそれぞれ好きなのだけれど、今まで救われたのだけれど、
それさえも心の底からは信用していないという気持ちがある。
中途半端、勇気がない、何も信じていないんだよね。
だから何も成し遂げることはできないのだ。

 

 

 

小説って昔は好きだったのだけれど、仕事をすると忙しくてなかなか読めなくなって、
それが本当に自分に必要なものなのかと思ってしまうようになってしまった。

僕は昔から本が好きだったのだけれど、それは親に褒められるためだったのだろう。
しかし、親が望むのはそうした子供ではなかった。
父は息子とスポーツを楽しみたいと思っていたのだろうけれど、
僕は少しもスポーツなんてできやしなかった。
勉強は少しはできたのだけれど、それはあまり親の望む姿ではなかったのかもしれない。
読書をすると先生に褒められる、とか頭が良くなるってそういうことってくだらないけれど、
僕はそこにそこだけに執着してしまっていたのかもしれない。

本を読むことが何かの役に立つ、プラスになる、良い印象になるから単に好きだっただけ。

 

 

 

大学でも、本を読むということは結局なにか、レポートとか書くときにそこに引き寄せることができるから便利だった。
でも、今は仕事関係以外のの本を読んだって、そこから何かに繋げることはできなくなってしまった。
いや、自分の生活が豊かになるとか、ただ単に楽しいから読むということでよいのだけれど、
でも僕は心が貧乏なので、自分の体験をなにかに繋げたいと思ってしまう。
しかし、僕はまったく人生の目標や計画がないのに、どうして人生にムダだとかプラスだとかそういったことが判断できるのだろうか。

好きな仕事、とか、自分の好きなものに関わっていれば、自分が体験した芸術はその参考にできたりするけれど、
僕はそういった仕事を辞めてしまってまったく別の仕事についてしまってわけである。

 

 

 

小説家とか、文章を仕事にできる人になりたかったな。
でも、小説に希望を持っているわけではない。それで自分が救われることができれば、それならそれが良いのかもしれない。
いや一方で小説が売れない時代にそんなことしても、生計を立てられるわけでもない。
また本が好きな人というのはみんな何か本を読むということを偉いと思い込んでいるようないけ好かないやつばかりだ。
退屈でつまらないやつばかりだ。それに学生時代はともかく、自分は仕事を始めてから、
本を読みたいと思って、本を読んで救われたことがあっただろうか。ないだろう、本を読むということには体力が必要なのである。
それは一種のぜいたく品なのだと思う。

 

自分は何も作れない。自分は何かを表現できるような価値のない人間だ。

 

価値のない人間だ。

坂口安吾

坂口安吾が大好きです。彼が、わたしに生きること、死ぬこと、孤独であること戦うことを教えてくれました。

 

 

この三つの物語が私たちに伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。


(中略)

 

それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私はいかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野をさまようだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであるようと同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。


文学のふるさと

 

 

 

 

 

 

ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれもでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。
(中略)
しかし、人生は由来、あんまり円満他行なものではない。愛する人は愛してくれず、ほしいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口を広げて待っている。強者ほど、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。


(中略)

 

人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさがわかるほかに偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりだろう。そのくせ、恋なしに人生は成り立たぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また明記しなければならない。
人生において、もっとも人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを恐れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたさぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうことなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうおとも、このほかに花はない。

 

恋愛論

 

 

 

 


私は風景の中で安息したいとは思わない。また、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は墜ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ、わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。

 

デカダン文学論』

 

 

 

 

 

 

 

 

生きることだけが、だいじである、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。ほんとうは、わかるとか、わからんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありゃせぬ。おまけに、死ぬほうは、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、戦い抜いてみせなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことをやるな。いいつでもできることなんか、やるもんじゃないよ。


(中略)

 

しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思うときが、あるですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は、きめている。是が非でも。生きる時間を生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。

 


『不良少年とキリスト』

よくある退屈な話

2年前に転職をした。

前職は新卒で入った会社で、自分の好きなものに関わる仕事だった。

決して給料が高くないということは分かっていた。
しかし、些細な事かもしれないけれど、自分を表現できて、好きなものを応援できる仕事だと思うと嬉しかった。

 

 

そのころの僕は自分のやりたいこと、好きだと思うもののためなら、どれだけの努力も惜しまないつもりだった。
一日中仕事ができる環境だった。13時に出勤して帰るのは翌朝の7時、休みは週に1度だった。
最初の1年間は連休も取ったこともなかった。食事は歩きながら済ませた。
身体が頑丈なことだけが取り柄な僕は、毎日毎日働き続けた。

ちょうど上司からも認められるようになったとき、部署の異動があった。
今までの努力は何だったんだという気持ちでいっぱいで、その部署では仕事を早く切り上げることだけが目的だった。
懇願して一年後には元の部署に戻ったのだけれど、前のように熱意が持てなくなっていた。
いや、熱意ではなく、本当は隷属だったのかもしれない。僕は上司の言うことなら徹底的に従った。それは一種の信仰だった。(しかし、全ては思い込みで、僕はただ一つの思い込みから抜け出したと勘違いしているだけでまた別の思い込みにハマるだけなんだろう)

働くうちに、会社が人を使い捨てにするような姿勢や、サービス残業を強いるような体制、
出口の見えない山積みの問題に嫌気がさしてきた。

 

また、自分は誰にも心を開けない人間なのだと、それも分かってきた。
僕の心は二重扉で一つのカギは僕にも在処が分からなかった。

僕は自分勝手なのだと思う。きっとそうなのだろう。

就職するときに、好きなものと自分が無関係になるような人生は嫌だと思った。
それに何かしら関わって生計を立てたいと思った。

 

 

しかし、僕はその仕事を辞めた。
そもそも自分が好きなものとは何なのだろうと考えた。
かけがえのないもの、どうしても譲れない信念。
それが僕にはないと気づいた。
全てを捨てても良い。何も大切なものなんてなかった。
自分がからっぽだということに気づいた。
そして、再就職活動をするなかで、自分がいかに市場価値のない人間か、技術のない人間か分からされた。

 

 

今は自分の好きなものとはかけ離れた仕事についている。
どんな仕事についても変わらないと思ったからだ。

 

 

何によっても、心が動かされることがない。
これから何か自分を突き動かすものに出会う可能性はあるのだろうか。
自分の人生が今では遠くから眺めた余生のようにも思える。
そう思うと吐き気がする。

 

 

僕はなにか重大な勘違いをしていた。
理想の仕事に就ける人というのは、それなりの、相応の、そのための努力をしてきた人なのだ。

 

僕はただ真面目なだけで、努力もそこに向けて費やされたものではなかった。
20歳の大人が、未経験からピアノを練習してピアニストになれるだろうか。
もうずっと前から、僕の可能性というのは決まっていた。

 

いつかもっとしっかりと目標を決めていれば…。
しかし全てはもう遅いのだった。
時間は巻き戻せない。過去に戻ることはできない。
今ある自分で何ができるか考えるか、あるいは全てを諦める他ないのだろう。

 

将来のことをきちんと考えられていなかった。自分の満足いく大学も行ったのだけれど、最初にこの道を選んでしまったのは間違いだった。


何も本気ではなかった。こんな人生になるはずだったのだろうか。

 

 

世界の根拠のなさについて

世界の根拠のなさについて(2001)
 高橋悠治

 

かれは 何についてでも語ることができる
意味のあることを
わたしは そんなことはしたくない と
ウンベルト・エーコについて ジル・ドゥルーズが言ったとか
インド洋にいるアメリカの航空母艦の甲板から次々に飛び立ち
闇のなか 機械に導かれたコースをたどり
機械が指した場所で爆弾を落とし
飛び還っては次の爆弾を装填し
こんなことが あたりまえのように淡々とすすむ
この世界で
夜の下界にどんなひとたちが息づいているのかを 感じることもなく
ふと立ち止まることもなく
何百万ドルかの武器を黙々と消尽する この空爆
世界貿易センターの破壊は ヒロシマよりひどい と
ふつうのアメリカ人は思っているらしい
アメリカのこどもたちの平和がいつまでもつづくように と
アフガニスタンのひとびとの泥の家をもとの泥にもどす爆撃が
毎日毎晩つづく
こんな世界にも
意味があるかのように語り
原因 条件 動機を分析し
やるべきことと やってはならないことを分別し
非難し 糾弾し 警告し
論じ 論じ 論じ 論じて
それでどうなる

自由とは必然の洞察だ と言ったのはヘーゲルだったか
世界を理解することではなく
世界を変革することだ と言ったのはマルクスだったか
それから世界はたしかに変わった
過去は変えられないとすれば それはたしかに必然だった
では 洞察はただしかったのか
理解はただしかったのか
ただしいとは いったい何だろう
そして どこに自由があるのだろう
アメリカはただしかった
だからアメリカは 世界を思うままにうごかすことができた
歴史は終わった とフランシス・フクヤマは言った
必然の洞察は 欲望の自由なのか

一方にただしさがあれば もう一方にまちがいがある
善があれば 悪がある
まちがいを まちがいのままにしておけない と
ことばの力で まちがいを ただし
悪がはびこるのは許せないと
暴力で 善を勝たせる
だが 論理があれば反論がある
勝利した善は 新たな悪と対面する
あるいは 勝ち誇った善が悪に変わる

インターネットに飛び交うことばとことば
イード ソンタグ チョムスキー あるいは
報復攻撃にただひとり反対したアメリカ下院議員バーバラ・リー
イマニュエル・ウォラーステインのコメンタリー
スラヴォイ・ジジェクの分析と だれかの反論 そして論争
ヴィリリオデリダのインタビュー
よめばよむほど そうだ そのとおりだ 鋭い指摘だ
と言いたくなるが それは感情が言わせているだけではないか
それらのことばがほんとうに言っているのは ただ
わたしはここにいる ということ
わたしは ここにいる 流れに逆らって ただひとり
それらのことばが照らし出すのは それを言うものの顔
その名前 知識人というその肩書
論理がただしく 指摘が鋭いということは
だれのためになるのか
ことばは だれをうごかすのか

考えてごらん マールンキャープッタよ 毒を塗り重ねた矢で傷ついた男がいて
ともだちや仲間 身内や親戚が医者を連れて来る
ところがこの男は言うのだ
この矢を医者に抜かせる前に
傷つけたものが貴族か神官か商人か職人か知りたい
そいつの名前と素性を
背が高いか低いか中くらいか
皮膚は黒いか白いか
どこの村 どの町 どの都のものか
その弓は長いか短いか
弦は繊維か葦か筋か麻か樹皮か
軸は野生か畑のものか
羽根は禿げ鷲か烏か鷹か孔雀か鸛か
紐は牛の筋か水牛か獅子か猿か
矢は馬蹄形か曲がっているかギザギザか歯形か毒矢か
などと言っているうちに 男は死んでしまうだろう
  (中部経典 マールンキャープッタ小経)

世界はことばでうごかせるか
うごかせるとしたら
それは 世界を暴力でうごかすのと どこがちがうだろう
いま起こりつつあることがらも もう過ぎてしまったかのように
ことばは うごいて止まないものを 一瞬つなぎとめる
そして ことばはことばを呼ぶ
ことばはことばを凝視する
そのあいだも
爆弾はことばを持たないものたちの上に 花びらのように降る

現実は だれのものでもない
思うままにうごかせないから 世界はある
世界に意味があったら こんなにも多くの苦しみがあるだろうか
情報によって 知識によって はっきり見透せるものなら
世界は こんなふうになっていただろうか
こんな世界を ありのままに見ることは
もうひとつの苦しみだからといっても
なにかをしなければならないと思い
なにかできることがあるはずだと信じて
安全なところでうろうろしている
このありさまを見たら
空爆の下で毎日を生きているひとびとは どう感じるだろう

かみさま
あなたのひこうきが まいにち やってきます
きのうも ぼくたちのテントに
ばくだんを おとしていきました
ぼくははしって いわかげに かくれました
わらって わらって わらいました
パレスチナの子どもの神さまへのてがみ)

ゴミ

Twitterを辞めました。
大学のころからやってたし、もう何年経っていたんだろう。
すごく時間が無駄にした気がして。
(しかし、ムダとはなんだろう。人生から無駄なものをそぎ落すことは、自らの足を食べる蛸と同じではないか
そういえば萩原朔太郎だっけ?そんな小説を書いたのは。)

何の発言もしなかった。ただ、ひとのつぶやきを見るだけ。
5年ほどだろうか、一方的に自分が彼らの日常を眺めていた。
いつの間にか、僕と彼らは知り合いなのではないかと思ってきてしまうくらいなのだけれど、
実際僕と彼らの間には何の関係もない。その関係が心地よくもあった。

人が人と繋がればつながるほど、全ては悪い方向に向かっていく。
かつてカナダのメディア学者マクルーハンは世界がインターネットでつながる事によって
孤立と個人主義が取り払われた、ひとつの原始的で部族的な村になると言った。

人と人が繋がることで、生まれるのは理解ではなく、境界と暴力だ。
人は変わらない。人は分かりあうことができない。
人が分かりあえるというのは幻想だ。


世界中の全ての人が各々誰もに対して無関心であることを祈る。

 

 

 


これは自己満足のための文章です。
自慰であり自瀆であり、しかも一種の治療なのかもしれない。
フロイト精神分析のなかで、自由連想法という方法を取った。
心に浮かぶものを自由な考えのままに連想していくことで、深層心理を顕在化する。
ここで重要なのは聞き手がいることだ。誰かがそれを聞くことこそに意味がある。

 

 

東京の近郊で生まれ、1歳年上の姉と5歳離れた妹がいる。親戚も女だらけで、男の兄弟が羨ましかった。
近所には優しいお兄ちゃんがいて、よく遊んでもらったな、思えばそれも原因だったかもしれない。
僕は幼いころからヒーローものには興味がなく、セーラームーンが好きだったらしい。
我ながら気持ち悪い。今となっては覚えてはいないことだ。


ある日夢をみた。小学四年生くらい。
アニメのキャラクターが出てきてその人は頼りがいがあって、すごくかっこよかった、みたいな夢。
いや、それよりももっと前かもしれない、小学一年生のころに読んだ児童書の主人公に憧れた。
もともと男が好きだったから、好きになったのか、
それとも兄という存在に憧れていたから、男を好きになったのだろうか。
分からない。鶏が先なのか卵が先なのか。

とにかく僕は物心ついたときから男が好きだった。
しかし幼稚園のころは、好きな女の子がいたということを母から聞いた。

いつから変わってしまったのだろう。


でも自分が男を好きということにあまり疑問も持たないまま、
それほど悩まないまま、成長した

 


というのは嘘かもしれない。

小学生のころは、スイミングスクールに通っていた。
運動が苦手な僕が唯一できるスポーツだった。
気になる男の子のちんこがみたかった。バスタオルからのぞく、まだ包皮に包まれたそれ。
タオルをすこし突き上げている勃起していることもあったそれ。
小学5年生ころからオナニーを覚えた僕は毎日悶々としていた。
想像のなかで何人ものクラスメイトと犯しあった。
僕がひっそりと覗いていたある子が、同じ中学に進学していたのに気づいた。
僕は水泳部に入ろうかと思っていたのだけれど、そうやって覗いていたのがばれているのではないかと怖く、入部できなかった。

 


そういえば、中学のころはとても孤独だった。
男を好きだということは異常だと思った。いや、今でも異常だと思っている。
気持ち悪い、と思っている。男なのに男を好きなのは自分だけなのではないかと思っていた。

 

 

中学三年生のころに、遅くまで塾に通うということを口実にして携帯電話を買ってもらった。
そこでゲイの出会い系の掲示板を見漁った。
気になる人にはメールをして、自分からも掲示板に載せることもあった。


初体験の相手は中学3年生の終わり、19歳の浪人生だった。
彼は関西から受験のためホテルに泊るのだった。
メール、電話、いやらしい写真を送りあった。半年ほどやりとりをしただろうか。

思い返すと、全然好みのタイプではなかったのだけれど、
エロいことをしてくれる、自分を求めてくれるということだけでうれしかった。
でも、彼は僕のことが好きではなかった。好きという言葉に好きと返してくれることはなかった。
僕はただの性的な道具だった。
なんであのころは無性に寂しかったのだろう。

セックスって、子供の最後の夢だよね。
僕の最後の夢は我慢汁と精液と唾液でぐちょぐちょで、
やさぐれて口から好きですという言葉が零れ落ちると床にぶつかって粉々に砕け散った。
好きな人とセックスをすれば幸せになれる、救われる、世界が変わると思っていた。
実際好きな人に好かれようと努力することで、僕は変わった。
身なりにも気を付けるようになった。どうすれば魅力的に見えるか考えた。
セックスしてもそれが好きということには繋がらないと分かった。
同じ同性愛者でも分かり合えるわけではないということが分かった。
どうしても手に入れたいものも、努力して手に入るわけではないということが分かった。

 

 

高校生になって、ゲイのいろいろな人と出会うようになった。
ファミレスの店長、弁護士、外資系のサラリーマン、声優を目指す学生、バンド活動をするフリーター、塾講師…。
それぞれセックスしたりしなかったり、
高校生っていうだけで良い価値がついたのかもしれない。

 


初めて付き合ったひとは、28歳で元海上自衛隊のフリーターだった。
朝早くおきて彼の住む埼玉まで向かった。演歌歌手を目指しているらしく、よくつまらないカラオケに付き合わされた。
大きなアリの巣が並んでいるような団地に住んでいた。それは大きな集団墓地のようでもあった。
母と同居していて、母が隣の部屋にいるのに、よくセックスした。
性欲が強く、一回のセックスですぐに二回の射精ができる人だった。
彼はつまらない嘘で、仮病でバイトを休んだ。
高校生になりたての僕が見てもダメな人だと分かった。でも求められるのが嬉しくて、付き合ってしまった。

 


僕は僕が嫌い。自信がないのだと思う。
誰にも必要とされないという想いがどこかにあるのかもしれない。

高校のうちにもう一人と付き合って、あとは大学生の間は適当に何人かとセックスした。

anone

毎週anoneを楽しみにしながら見ているのだけど、
今回は一層そのサスペンス的な緊張感に心臓が鳴ってつい書きたくなった。

 

 

しばらく前に放送されていた坂本裕二脚本の
『カルテット』と『anone』のテーマは一貫している。

 

それは「家族や恋人や友達など、従来の枠から外れた人間関係」だ。
このテーマ中心に、軽快でユーモラスで絶妙にひやひやする展開で描いていて、もう本当に面白い。

 

でも、なんだか気になってしまう部分があって、それについて書きたいと思う。

『カルテット』

 

このドラマには上記に書いたテーマの他に様々な投げかけを視聴者に問いかける。
例えば「男女間の友情は成り立つのか?」とか「才能がなくても人は好きなことを続けていくべきなのか?」とか
「仕事と趣味は割り切るべきなのか」とかとか。

 

多くの人が思い悩んでいることをドラマで描いているんだけど、
う~ん。カルテットではその答えが一切提示されなかったと思うんだよね。

 

 

僕の読みが甘いのかもしれないけど、このドラマのラストはそういった問いの結論を全て宙吊りにするような終わり方だった。
視聴者に考えることを丸投げにしただけで確としたものを何も残してはくれなかった気がするんだよね。

 

いや、まぁ考える機会をもらえただけでそれは十二分に素晴らしいことなんだけど…。

でも、そうやって答えを曖昧にされると、
あんなに素敵な4人の関係は結局は実現しないことなんだって言われているみたいに感じるんだ。

 

家族でも恋人でも友達でもない温かい関係、そんなものは本当はなくて結局は夢物語なんだよって言われてるみたいなんだ。

 

 

でも僕はそういう関係があって欲しい。家族も友達も恋人もうまく築けなかった人間にも居場所があるってことを、ちゃんと肯定してほしい。
「あるかも」とかそんな曖昧にしないで、ちゃんと言い切るように描いてほしい。

 

 

 

 


「anone」の次回予告で亜乃音さんが逮捕されそうになっているのを見て、ちょっと気が気でなかった。

 

だって亜乃音さんが逮捕されるっていうことは優しいひとが痛い目を見る、頑張る人は救われないって
そういうことになってしまう気がするから…。

 

みんながバラバラになるってことは、やっぱりそんな人間関係は成立しないんだってことになってしまうんじゃないか。

 

今回はどうか、居場所のない人たちの居場所を肯定してほしい。
夢物語だとしても、甘いと言われても、そうあってほしい。

 

『匿名の彼女たち』一夜と永遠

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五十嵐健三『匿名の彼女たち』最終巻の6巻が最近出たので、今回はそのことについて書きたいと思う。
(ネタバレあり)

 

 


『匿名の彼女たち』
あらすじ:
主人公の山下貴大(33歳)は中堅商社勤務、独身、彼女なし。
趣味は風俗巡りで、タイトルの通り、名前を偽って働く風俗嬢たちとの
一夜、一瞬限りの出会いを描く…。

 

この作品が好きなのは、可愛い女の子といろんなプレイを描くみたいな
単なるエロだけの作品ではなくて、風俗で働く女の子の、ほんの少しの会話や仕草から垣間見える
思い出、感情、主人公が感じる行き場のなさ…切なさが描かれているところです。

 

その切なさっていうのは、例えば一巻でこんな会話がある。

 

 

「親父さんと仲良いの?」
「よくわかんない。アイツ仕事ばっかであまり家に居なかったから…」
「あ~でも最近よく会話はするのよ!アイツに子供ができてね…」
「それがちょー可愛いのよ!まあ腹違いなんだけどいちおう姉弟よね…」
「もう少し大きくなったら一緒にお人形遊びするんだ!まぁ親父念願の男の子なんだけどね」

 

風俗で求めているのは、特定の愛すべき女性ではなく
ただ、性欲を満たすだけのために、顔やプロポーションが整っていれば誰でもいい他人、関係のない人間だ。

 

しかし、その娘がどんな家庭で育ってきたのか、今までどんな想いでいきてきたのか? ふとした瞬間に少しでも知ってしまうと
お互い無感情な全くの他人同士ではいられない。

彼女たちは誰でもない誰かではなく、ただ一人の女性となって彼の前に現れる。
しかし、彼女たちの人生と深く関係するわけではなく、ただ一人の人間の寂しさや切なさを知って、すれ違っていくだけだ。

 

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また、僕が特に気に入ってるのは、2巻でデリヘル嬢ミユウちゃんと店外デートをする回だ。

会社で想いをよせる女性に彼氏がいることを知ってしまい、そのショックを埋めるために「誰でもいい」と彼女を誘う。
手をつなぎ、一緒に食事を分け合い、観覧車に乗り、二人はドライブデートを楽しむ。
しかし、山下はシャワーを浴びる彼女の携帯に客から卑猥な留守電があったのを覗き見てしまう。
山下は帰りの車内で留守電を聞いてしまったことを話し、「俺以外にもデートしたりsexしたりしてるのかな…」
と言葉をもらす。ミユウちゃんは自分をデリヘル嬢だと分かってデートに誘ったのに、そんなことを言うのは最低だと言って車を降りる。
山下は、ミユウちゃんへ電話をかけるが繋がらず、彼女を傷つけたことを最低だと思う反面、他人と深く付き合うことを避けれたことに安堵する。

 


僕は山下の気持ちがよ~く分かる気がする。
好きな人に抱く清楚でいてほしいという幻想や、たった一度身体を重ねただけでも、その人のことを独占したいと思ってしまう
アホさ加減とか、男って本当にバカで情けない生き物だと、実感する。

 

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そんな『匿名の彼女たち』の6巻では、想いを寄せる会社の後輩である郷田さんと
最初で最後のセックスし、そのあと告白するのだが、そこでこんな会話をする。

 

「私・・今日とっても幸せな気持ちになれたんです」
「いろいろあったけどでも最後に」
「多分一生分の幸せをもらって…」
「だから私もう可哀想な女じゃないんです」
「今日のことでこれからどんなことがあっても生きていけるって思えたから…」

 

結局、山下は郷田さんに振られ、何年か後にばったりとスーパーで彼女と出会う。
彼女には子どもがおり、幸せそうな姿をみて山下は涙をこぼす。

 

この漫画のテーマはこの最終話にある気がした。
それは鶴田謙二の『おもいでエマノン』に通じるようなものだと思う。

 

 

つまり、一瞬の愛も、永遠の愛もその価値は変わらないというか
郷田さんは山下からの愛を信じていないというわけではなく、
一瞬愛されただけでそれだけで満足した、だからそれ以上のことはもう求める必要がないということなのだと思う。
夫婦になることが世の中では正しいと信じられているけど、
愛は一瞬でも愛で好きだという気持ち、他人を肯定する気持ちには変わりがなく、
ひと時の愛でそれは意味のある事だということなのではないか
永遠の愛も刹那の愛にも同じ価値がある

だから風俗嬢と体を重ねあう一夜限りの恋もそれが偽物だとか本物だとか、そんなものにこだわるのは意味がなく
一瞬すれ違っただけでも好きという気持ちはずっと残る
結婚とか夫婦になること、誰か一人を愛し続けることと
誰かを一瞬でも愛することに本当は違いなんてないのではないか。
夫婦でいたとしても、その人のことを好きになって嫌いになってそれを繰り返すだけだ
だから風俗嬢との出会いがムダというか、生産性のないものではないとかではなくて、
山下がたとえサービスを受けるとかそんな関係でも、その瞬間にお互い満たされたなら、
それで生きていける瞬間があるかもしれないし、
一瞬でも愛し愛され、誰かの気持ちを慈しむことができたなら、それは幸せだ。
たとえ風俗嬢との一夜の逢瀬でも人を愛する気持ちに変わりはない
誰かに好きと思われた、という思い出があれば、生きていけるそんな瞬間があるのではないか


…と勝手に解釈しました。

 

あ、あと毎回表紙のデザインがすごくかっこいいので(画像参照)それも大好きなところです!五十嵐健三先生次回はどんな漫画を描いてくれるのかすごく楽しみです!

 

 

おわり